■ 松原泰道師の「般若心経」 |
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臨済宗・龍源寺の元住職である松原泰道師の著書「百歳で説く『般若心経』」(アートデイズ発行、 1300円+税)を買って読み始めた。 付録にCDが付いており、@松原泰道師の法話「般若心経について」A「開経偈」読誦、 B「般若心経」読誦が入っており、時々それを聞くようにしている。 今までも、「般若心経」に関する書籍は何冊も購入しては、文字で書かれている経典の全体を理解 しようとして、最後まで行きつかないままを繰り返してきたように感じている。今回は松原泰道師の 法話を何回も聞くことで、そのエキス部に触れていると考え、そこで説かれているポイントを整理してみる こととした。 |
たくさんあるお経の中で、一番短いお経が「般若心経」で、276文字の中に解き尽くされた人生の 真理がある。仏教に帰依する初心者が写経するにも読経するにも向いており、釈尊の思想を理解する 上でも素晴らしいものである。お経は、文字ではなく哲学・宗教そのものである。従って、昔から文字は あったが、お経を文字で書くことは、哲学・宗教を冒涜することになるということで、お経は口伝するのが 当たり前であったそうである。 |
では、「般若心経」の中身について話を進めていく。 観自在菩薩(観音様)は実在の人物ではなく、釈尊の修行内容の象徴である。 その観音様が、釈尊の弟子で実在の人物である舎利子に「空」を説く物語である。 舎利子は懐疑派の哲学者であるが、その舎利子に「空」を説くというシチュエーションに なっている。 「空」とは、「ものごと・現象の存在の原理」であり、一言では言い表せない深い意味を 含んでいるが、「無常」と「無我」という言葉で表現することができる。 「無常」とは、「全てのものは移り変わり、とどまることはない」ことであり、そういう中で、 現在、生かされていることは「めったにない」ことで、「ありがたい」ことである。 「無我」とは、「モノはそれだけで単独では存在しえない」、最近の言葉で言うと「関係性の 原理」であり、皆が関わりあって生かされていることは「もったいない」ことで、「おかげさま」 ということである。 |
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「ものごと・現象の存在の原理」を理解することで、囚われてはいけないという のではなく、囚われなくてもすむ道理が「空」であると説いている。 以上のことが分かれば、「般若心経」のエキスを理解したことになる。 人間は本質的に仏様になりうる可能性を持っているもので、そのことを「本心」という。 それに気付いた人々が、「囚われない心、拘らない心、偏らない心」をもち「本心」に 帰るために、お経を読み、写経を行い、修行を積むわけである。 |
例をあげると、読経・写経を繰り返し行なったり、修行を積むことで、自分の人間性を 高めるという素晴らしいご利益にあずかることになる。まさに、「継続は力なり!」である。 また相手から受けた苦労や恥を恨みで返すのではなく、その恨みを踏み台にして自己研鑽し、 自分の人間性を高める結果を得ることで、相手に感謝する心を持つことができ、相手を救う こともできる。まさしく、「恕の心」である。 |
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人生は人間修行の場であり、私たちが生きている限り、例外なく遭遇する老・病・死の苦が縁に なって、人間として成長でき、その内容も豊かになるのが真実の功徳であり、ご利益といえる。 それには、私たちはいずれも、老い、病み、死ぬ存在であると、はっきり自分を見据えることである。 その視点が「空」であると、「般若心経」は教えていることになる |