肥後藩の“飛び地”が豊後国にあった!
税理士の平岡さんから、熊本に関する珍しい話を聞きました。
「江戸時代初期に肥後藩の“飛び地”が豊後国(鶴崎や佐賀関)にあった」とのこと。
関ヶ原の戦いの功績により、徳川家康は加藤清正に肥後藩北部と天草を領地に与えましたが、清正は天草を辞退し、天草の代わりに大分の鶴崎や佐賀関を所領として求めて、“飛び地”を認め与えられた。具体的には直入郡(久住・白丹)、大分郡(鶴崎・野津原・三佐)、海部郡(佐賀関・大在)の3地域だそうです。
これらの地域は、明治維新後の廃藩置県(1871年)まで、肥後藩の“飛び地”として存在していましたが、その後、廃藩置県により大分県に編入されました。
「なぜ天草拝領を辞退したのか?」「なぜ飛び地を求めたのか?」に、非常に興味を持ち、早速コパイロットを使って調べてみました。
加藤清正が天草の領地を辞退し、代わりに大分の鶴崎や佐賀関を所領として求めた理由として、大きく下記の3要因があったようです。
*地理的要因 : 天草は島嶼部であり管理や防衛が難しい地域。一方、鶴崎は瀬戸内海・豊後水道に面した海上交通の要所で、経済的な発展が期待できる場所だった。
*経済的要因 : 鶴崎は港町であり、商業活動が盛んでした。清正はこの地を発展させることで、藩の経済基盤を強化につながると考えた。
*政治的要因 : 天草はキリシタン大名である小西行長の影響が強く、宗教的な対立が生じる可能性があった。清正はこれを避けるために天草を辞退した。
そして、なぜ“飛び地”を鶴崎や佐賀関に求めたかについては、肥後藩は九州の中心にはありますが、参勤交代の時も含めて大阪や江戸への交通や物流の要所を持っておきたかったことがあるようです。
鶴崎や佐賀関は、穏やかな海・瀬戸内海にも面し、大阪や江戸に向かう交通の要所でもあり、経済的にも非常に重要な地域だったようです。このルートは肥後街道(豊後街道)として、参勤交代の時にも使われて、途中にある宿場町も栄えていたようです。
加藤清正は戦国武将で勇猛果敢なイメージが強いのですが、地域を栄えさせることの重要性がわかっている“非常に先見性が高い人物”だったことがわかりました。
鶴崎では「治水事業(洪水被害減少と農業安定化)、農地開発(干拓事業)、鶴崎城の整備(防衛力強化)などを、佐賀関では港湾整備(地域の交通と物流発展)、漁業振興(水産品の水揚げ港)、防衛力強化」などを行った功績があり、今でもその影響が残っており、地域の基盤を築いた人物として評価されているそうです。
もちろん我が故郷・熊本での加藤清正の功績も「熊本城の築城、治水事業、干拓事業」などが語り継がれています。

加藤家の統治は1600年から1632年までの32年間続きましたが、種々の理由で御家断絶となり、豊前国小倉藩主・細川忠利が熊本藩主となりました。
熊本で加藤清正は“せいしょこさま(清正公様)”と呼ばれて親しみを持たれていますが、肥後藩の基礎をつくってくれたからだと改めて理解しました。
改めて、熊本の歴史を勉強させてもらいました。