■失われた伝統的な信仰
このところ統一教会問題やオレオレ詐欺に加えて、組織的強盗殺人事件など、我々世代からは想像できない問題の多発に心を痛めている。
「自分さえよければ、今さえよければ」の近視眼的思考が蔓延しているように強く感じる。
科学技術の発展に伴い、「死」に対する日本人の宗教心、加えて日本人の倫理観も変質してしまった感じを受けていた。
そのような時に、日経新聞に佐伯京大名誉教授(経済学、経済思想史、日本思想史、日本哲学)の『「失われた伝統的な信仰心」/「死」の直視やめた日本人』のコラム記事を見つけて、私の心に引っ掛かり何回も読み直してみた。
「宗教心」と「特定宗教」とは異なることをハッキリ認識できた。そして、ここに問題の本質を見出した気がしている。
戦後日本では、戦前の国家神道への反動もあり、宗教のみならず、日本人の伝統的な信仰の基盤までも、掘り崩されてしまった。近代の合理的思考が「正しい」とされると、神仏や霊魂と言って得体のしれない観念は、迷信の類と同列に扱われかねない。
在宅看取りクリニックを立ち上げた岡部医師が、経験から得た実感が書いてあった。
*在宅で「不必要な治療を止めて適切な看取りを受ける患者」の多くは、安らかな死を迎えることができる。しかも在宅患者の多くは、既に死んだ近親者の「お迎え」を経験し、そのことが精神の安定に繋がっている。
*何らかの「宗教的心情」、とりわけ来世を信じるという宗教心が必要である。といっても、死後世界の有無が問題なのではなく、「死後世界で親しかった人たちにまた会える」という気持ちを手にできれば、生の最後はかなり安らかなものとなる。
人は必ず死を迎えるという現実を知っており、人の宗教心の起点には「死への恐怖」や「死後の世界」への関心がある。
人間のいかなる意思も知恵も全く受け付けない、この絶対的な「何ものか」の力を感じ、それに従うほかないと知る時に、我々は宗教に触れている。
ことさら宗教というまでもなく、死者は聖者と繋がっていた。この世とあの世の繋がりを人々は当然だと思っていた。そして死者や先祖を介して家族や親族、知人との繋がりもあった。そこからまた、人々の倫理観も生み出されたのであろう。
特定の宗教を信じる、信じないにかかわらず、「宗教心」を持つことの大切さを、我々は再度認識することが大切な時代を迎えているように感じている。
「先祖を崇拝し、子孫繁栄を願う」「自然を大切にする(循環型社会)」「和を大切にする(信頼社会)」ことが、日本再生・日本人再生のカギになるのではないか。