■人間のための経済学 宇沢弘文①
先日の熊日新聞の読書欄に「宇沢弘文 新たなる資本主義の道を求めて」(佐々木実著、講談社現代新書)の書評が掲載されており、久しぶりに宇沢弘文に関する記事を見ました。
彼が亡くなって間もない頃(2014年)に記事化されたものを読んで、日本に凄い人がいるなとの記憶がありメモファイルも残っていました。
それを見直したところ、当時はあまり印象のなかった「社会的共通資本と市場のあり方」が、SDG`sが叫ばれる時代になって、先進性のある社会構造の未来予測だったことを改めて感じ、早速コラム化することにしました。
 1970年代から80年代前半にかけて、日本には反経済学ブームというものがあったそうです。この時に批判されていた経済学というのは、市場メカニズムを重視する新古典派経済学やミルトン・フリードマンのマネタリズムなどです。
もともと日本の経済学は戦前から「マルクス経済学」と「近代経済学」に事実上真っ二つに分かれていた経緯がありますが、両方ともにmodern(近代)の産物です。しかし新古典派経済学やケインズ経済学だけが、日本では近代経済学といわれていました。大学ではマルクス経済学の勢力は強く、アカデミズムの場にマルクス経済学者がほとんどいない米国に比べると、かなり異質なものでした。
マルクス経済学は、経済学というよりも社会哲学。マルクスによれば、資本主義経済は「進歩して」社会主義革命へと弁証法的に発展していくと説いています。マルクス主義経済学は、このような歴史と社会の法則を学ぶものでした。
一方、近代経済学は、統計とモデルを使って数学的に効用計算を行い、人々の経済行動を分析するもので、現在多くの人が持っている経済学のイメージにほぼ合致します。宇沢さんは後者の、最先端の近代経済学の大権威だったようです。

宇沢さんは「経済学の原点は人間、人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね。その心を大事にする。一人一人の人間の生きざまを全うするのが、実は経済学の原点でもあるわけね。」と言っています。
研究室を飛び出し、現実の問題と向き合うことを大切にしており、公害問題に悩む水俣では、患者を訪ねてはその苦しみを聞き、空港建設問題に揺れる成田では、国と住民の調停役を買って出ました。
理論にとどまらず、現実の世界に貢献しようと考えていたようです。

もちろん新古典派経済学を批判だけしていたのではなく、「社会的共通資本」という新しい考えを提起しました。それは市民的権利をいかに支えていくかを彼なりに考えた成果だと思います。大気、河川、土壌などの自然資本、道路、橋、港湾などの社会資本、医療、教育、金融システムなどの制度資本を、政府が安定的に提供することで、市民が最低限度の生活を送りやすくするという構想です。そしてこのような社会的共通資本は、官僚のコントロールではなく、専門家集団を中心とする市民的な取り組みで指導していくという考えです。

次回に続く