■「ソサイエティー5.0」の違和感
先日の熊日記事に、『「ソサイエティー5.0」の違和感』という長谷川真理子先生(綜合研究大学院大学長)の記事が掲載されていて、最後まで読んでいろいろ考えさせられた。
内閣府のホームページによると、人類がこれまでたどってきた歴史を振り返れば、「狩猟採集社会(道具の発明)がソサイエティー1.0」「農耕社会(定住化)が2.0」「工業社会(産業革命)が3.0」「情報社会(情革命)が4.0」で、これからは更にデジタル革新が隅々にまで進んだ「ソサイエティー5.0の時代」ということのようである。
そもそも「〇〇5.0」のような表現がされるようになったのは、ほんの数十年前で、それまでは存在しなかった。
情報化時代に入り、ソフトウェアのバージョンアップが一般化してから出てきた言葉である。古いバージョンのソフトウェアは、それ以降は無視される存在になる。
では「社会」というような組織全体も、ソフトウェアと同じようにアップデートされるのだろうか?
という長谷川先生の問題提起である。
旧人類は約30万年前(新人類は20万年前)に出現し、狩猟採集生活の期間が最も長く、次の農耕生活に入ったのは約1万年前(3000年前の説あり)である。そして工業化社会(産業革命)が始まったのは、ほんの170年前であり、情報化社会は50年前に過ぎない。産業革命以来、人間社会の急激な変化が加速されているが、私たちの心も体も狩猟生活に適応するようにつくられている。(この間、遺伝子にまで変化が起きたことは数少ないとのこと)
今でも狩猟採集生活をしている人々もたくさんいるが、このような生活は時代遅れではなく、心も体も一番適応した生活をしていることになる。
そして狩猟採集社会で培われたさまざまな適応策が、いまだに私たちの遺伝子や脳の働き方の中に組み込まれている。
そうやって進化した脳の働きが非常に可塑性に富むものであったため、私たちはその後、農耕牧畜を発明したり、工業化文明を築いたりすることができた。しかし、それらはある特定の技術分野の変化や進展に過ぎない。
社会全体の運営の仕方が、一つの段階から次の高次の段階へと進化してきたというのが「社会進化論」である。そしてそれは、未開の状態から西欧白人の社会に進む一方的な進化(東洋の西洋化)だと考えられてきたが、今では否定されてきている。しかし日本人には第二次世界大戦に敗戦し、GHQによる「3S政策」「戦前日本の全否定教育」などにより「日本精神の全否定」「自虐史意識の刷り込み」が今でも尾を引いている感じがする。(日本の西洋化は善)
要は一方向的論理ではなく、「西洋と東洋の融合」が人間社会の未来に望まれている気がする。