■日本低迷の元凶 「思考停止社会」
首記のような記事を見つけ、読んでみたところ印象深かったので、当コラムに編集掲載することにした。当記事は『日本的「勤勉」のワナ』(柴田昌治著/朝日新書)からAERAdot編集者がコラム化したものである。
日本低迷の元凶「思考停止社会」を変える、日本人の強靭な強みとは (msn.com)
多くの日本の会社が安定優先の経営姿勢を長年続けてきたことが、安定重視の社会規範を私たちの意識の中に蔓延させている。その結果、「予定調和」であるとか「前例踏襲」といった思考姿勢が多くの伝統ある会社では当たり前の規範となっているのが現状である。
不動の前提を枠とし、その枠の範囲で業務を処理するのは効率的で、気持ちの上でも頭を使わないという意味でも楽である。この楽で効率的な思考を「枠内思考」と呼んでいる。その結果「枠内思考」による「思考停止社会」を生んでいる。
一定の環境さえ用意すれば、お互いに自分に似た「何か」を共有しようする感覚を多くの人が持っているという人間関係における強靭な強みが日本人にはあるからである。この感覚を私は「日本人が持つ共感力」と名付けている。
その「違い」とは何かといえば、自分の人生を会社の意志で決めてきた人と、自分の意志で決めてきた人の、思考の在り方の「違い」である。
それはどういう人なのかといえば、一つは自分の意志でリスクの伴う転職を決行してきた人だ。自分の人生をリスクの伴う自らの決断で決めてきたという経験は、順調に過ごしているサラリーマンでは味わうことのない経験である。
普通の会社員なら、多くの場合には向き合う機会のない、「働くとはそもそも自分の人生にとって何を意味することなのだろう」とか、「この会社で働くことが自分の人生にもたらす意味は何だろう」とか、簡単には答えの出ない問いと向き合わざるをえない経験をいつの間にかしている可能性がある。
転職のような「人生の荒波にもまれる経験」はそのほかにもいろいろある。もう一つの例でいうと、海外の子会社などで、重要な意思決定を自分の責任でせざるをえないような立場を経験してきた人もそうである。
この人たちも、自分の意志で転職を決断してきた人と同じように、過去の経験から答えを簡単には導き出すことのできない、正解のない「問い」と向き合わざるをえない経験を知らず知らずのうちにしてきている。
さらに付け加えれば、がんなどの重い病気や大けがで何カ月もの入院を余儀なくされてきた人、もしくは会社人生で降格、左遷といった大きな挫折を味わったことがある人などもそうである。
因みに、私の人生を振り返ると、上記の殆どを経験した人になりそうである。私が主宰する若手経営者塾「共育塾」で大切にしている言葉として『自分の頭で考え、自分で理解を深め、自分の言葉で話す』があります。
本人が意識しているかどうかは別にして、今、日本企業が最も必要としている「考える力」を駆使せざるをえないような経験をしてきたということである。
私が言う「違い」の持つ意味とは、まさにこのことだ。「どうやるか」だけでさばくような思考姿勢であっても、予定調和や前例踏襲での対応を求められるだけであれば、特に問題は出てこないのだ。この「どうやるか」だけでさばく思考姿勢こそが、私が問題にしている無自覚の「枠内思考」というものである。
つまり、何らかのルールや約束事、または前例などを制約条件として、それを枠と捉えることで、枠を前提として枠の範囲で「どうやるか」だけを選択肢の中から選ぶという思考の仕方に無自覚になっているということだ。

異なる角度から見ると、日本は聖徳太子の「和を以て貴しとなす」が染みついた社会であり、「ないものを創る能力」が磨かれにくい社会である。
農耕民族の性(さが)なのかもしれない。