●福岡伸一の「動的平衡」②

前回の最後のほうに記載した福岡伸一の発言内容は、非常に印象深く説得力のある話であった。
現代はロゴス(論理)を重視した社会になり、そのロゴス的思考の究極のものがAIである。AIはロジックでつくられたアルゴリズムを超高速に廻し続けているコンピュータにすぎない。人間とAIが違うのは「時間の捉え方」である。
AI(デジタル:点)と人間(アナログ:空間)の違いについて、「AIは高速パラパラ漫画(=映画)のようなもの。「パラパラ漫画」は、1枚1枚に微妙に変化をつけた絵を連続で見ると、まるで動いているように見える漫画、即ちアニメーション。AIがみている世界はこのパラパラ漫画である。瞬間・瞬間の一枚の原画を取り出し、そこに描かれた世界の因果関係や仕組みをロジカルに理解することはできる。
ところが自然現象や人間は「パラパラ漫画」とは違って、ロゴス(論理)だけでは捉えきれないことが起きている。この相違を理解しておくことが、全ての出発点になる。
人間が捉えている時間は点ではない。「過去があるからこその今である」ことを理解しているし、「数秒後を予想した上での今なのである」。だから時間は点ではなく空間のような厚みがある。その空間の中に過去にも未来が入り込んでいるのが「今」なのである。
こうした厚みがある時間の中で、生き物は「創ること」そして「自らを壊すこと」を同時にやって、動的平衡を維持している。人間の脳の中では、矛盾したことを考えているし、まったく関係ないもの同士をつなげたりしている。決してロジカルではない。偶然もあるし、まさにカオスなのである。
AIは今後も「計算機」としての進化はあるだろうし、それによって一部の仕事を代替することはできると思う。しかし成り立ちが違う以上、人間そのものを代替するものにはなり得ない。その意味で「シンギュラリティ」は来ない。「The Singularity Is Near」でもなく、「The Singularity Is Here」でもない「Never Here」なのである。
近代社会の人間は「社会」という虚構をつくりあげ、そのルールの中で生きるようになった。それよりも大きな変化は、他の生物が「利己的な遺伝子」に従い、「自らの種を残す」目的で生きているのに対し、人間は種を残すよりも「個の自由」を優先するように生きるようになったことである。この「個の自由」を優先する社会が今後どうなっていくのか。
今後もそれを維持していくには、人為的な努力も必要になっていくであろう。
種の保存が守られている状態においては、個人の自由の追求に意識が向く余裕があるが、種の保存が守られなくなる危険性が出てくると、そうはいかなくなるのが必然。私たちが生物である以上、その本質的な法則を忘れてはならない。
この言葉は、人間社会への警鐘であると思っている。
「動的平衡」的な現象が細胞、分子レベルに留まらず、人間、コミュニティ、社会でもフラクタル(自己相似:幾何学の概念)に起きていると考えるならば、今後も、宇宙の「エントロピー」は増大し続けるし、人間社会でもいろんな次元で「破壊や分解」と「創造や合成」は繰り返されていく。人間社会では今後、格差問題が広がるかもしれないし、仕事の一部の仕事はロボットに奪われることがあるのかもしれない。しかし、そうした不安定な状況こそが、次の社会や仕事を生み出していくプロセスとも捉えることができる。細胞と同じように人間は周囲の人たちとエネルギーも情報も物質もエントロピーも交換しあっている。その関係性が次のレベルであるコミュニティに影響を与え、さらに高い次元の「社会」にも影響しあっている。だから周りに壁を立てて、局所的な幸せや効率、富などを求めると結果的に高い次元では「損をする」「全体の不幸を招いている」という現象が起きる。これは長い歴史を通じて、私たちに生物学が教えてくれたことでもある.。
福岡伸一の話を聞いていると、哲学や宗教に関連する本質と同根であるものを強く感じる。最近、今まで学んできた様々な事柄が頭の中で繋がってきていることに何か気付きを感じることがある。「デジタルは繋ぐ技術である」と聞いたことがあるが、今からの日本は「デジタルとアナログの融合」により、東洋と西洋社会のギャップを繋ぐ役割を担っているように強く感じるようになってきた。
これらについては、もっと整理して表現できるようになった時点で紹介したい。