●哲学から学んだ「印象的な言葉」

昨年1年間にわたる「哲学と宗教(西洋哲学、東洋哲学、宗教)」に関する新たな学びの中で、私の中で非常に印象的な言葉が3つある。
まずは、哲学の原点である「無知の知」という言葉である。
無知の知」について、万学の祖・ソクラテス(BC469-399)は「真の知に至る出発点は、無知を自覚することにある。それを自覚した上で、真理探究を進めていくことが大切である。」と言っている。別の言葉に換えていうと、『「自分がまだ無知であることを自覚できていない、または知らないのに、知っているような勘違いをしている」よりは、「同じ知らないでも、自分が知らないと自覚している分だけ、優っている」』という意味である。
中国やインドにも、同時代に同様の言葉を伝えた人がいるので紹介したい。
*孔子(BC552-479) :「知っていることを知っていること」として、「知らないことは知らないこと」としなさい。これが知るということである。(知之爲知之、不知爲不知、是知也)
*釈迦(BC463-383) :「もしも愚者がわれは愚かである」と知れば、すなわち『賢者』である。「愚者でありながら、しかも自分は賢者だ」と思うものこそ、『愚者』と呼ばれる。

ソクラテス

孔 子

仏 陀




アリストテレス

メソテース

次に、「中庸」という言葉である。
中庸 :物事は2分化した考え方を融合することが大切であり、その際の行きつくところは「中庸(バランス)」を目指す。
⦁ 自分の価値観(正義、損得・欲得、好き・嫌い、楽しい・苦しい)を明確化する
⦁ 自策のメリット・デメリットを明確化する(今は相互にメリットのみ発信!)
⦁ もしそれが偏り過ぎている時には、中庸に向かう選択・決断をする
⦁ それらを綜合・比較検討し、自分の価値観に基づき選択・決断をする
⦁ 基本的に「自己選択・自己決断・自己責任」を原則とする
中庸とは、孔子を始祖とする「儒教」の徳の概念でもある。孔子の孫である子思が、孔子の教えを理論的に体系化し、書物「中庸」として残している。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」などは、中庸の徳(根幹に「誠」の概念)を表現している。「天命を知り、中庸の徳を磨く」の言葉もある。
西洋哲学でも、アリストテレスの「メソテース(=Golden Mean)は、バランスの大切さを説いており、まさに中庸である。英語圏での中庸の徳は「the golden mean」と称されており、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」も「More than enough is too much」で表現されている。

3番目は、「分別知と無分別知」という非常に奥の深い言葉がある。
異論はあると思うが、私が一番「腑に落ちる」のは以下の表現である。
『人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていない。外部のものに興味を持ち、五感を使って一つ一つ学習していく。この状態は「無分別知」である。「小さな子供は純粋で邪気がない」といわれる姿である。
それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知り…というように、それぞれを区別していくことで現実世界を知っていく。世界をバラバラにすることで認識していくわけである。この知恵を「分別知」といい、我々が普段使っている「知恵」のことである。この「知恵」により本質(ありのまま)を見る目が曇っていく原因(執着心)になっていく。』
「分別知」まみれの大人が、この執着心から解放されるために、『「分別知(知恵)」に「無分別知」を融合することで、「無分別智(智慧)」を生み出す』ことができ、「偏らない心、拘らない心、囚われない心」を持つキッカケとなる。

この世に生を受けて「無分別知(無心)」から始まり、学生・社会人になるに従い「分別知(知恵)」まみれとなり、自我・執着心を膨らましていく。そして多くの喜怒哀楽や四苦八苦を経験していく中で、「生きる意味」を自問自答しながら、試行錯誤も繰り返しながら「無分別智(智慧)」を体得していこうとするのが人間なのかもしれない。今こそ「西洋哲学(分別知)と東洋哲学(無分別智)の融合」が望まれる時代になっている気がする。
科学万能のデジタル社会に偏り過ぎている今、アナログ社会の大切さを見直し、「デジタル社会とアナログ社会の融合」即ち『中庸』を求めることが大切なのかもしれない。