■三島由紀夫 没後50年 |
10月後半の熊日新聞の文化欄記事に、「三島由紀夫50年後の問い」が5回シリーズで掲載された。 演出家・宮本亜門、社会学者・宮台真司、映画監督・吉田大八、哲学者・熊野純彦、文芸評論家・安藤礼二の5人が、それぞれの視点から「三島由紀夫」について論じており、改めて三島由紀夫の思想の奥にあるものに触れた感じがした。 今朝の熊日新聞記事の文化欄に、「没後50年 三島由紀夫と熊本」の記事を見て、三島由紀夫と熊本との深い縁の一端を改めて知ることができた。 16歳の時のデビュー作「花ざかりの森」で才能を見出したのが、熊本出身の国文学者・蓮田善明。それが縁で、西南戦争の前年に起きた「新風連の乱」に興味を持ち、66年には熊本に4日間にわたる取材訪問をし、熊本の郷土史家・荒木精之が案内したことなどを初めて知ることができた。訪問礼状の中には「新風連の遺風を慕って訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。・・・新風連の乱は小生の精神史に一つの変革をもたらしたようです。」と書いてあったとのこと。 |
そして、その4年後に東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、三島由紀夫は割腹自殺した。私が若い頃に強い衝撃を受けたので覚えているが、「新風連の変」が「三島由紀夫の思想」に大きな影響を与えていることにも驚いた。 |
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桜山神社境内の神風連資料館を早速訪問した。新風連の変については、「尊王攘夷の思想を持った集団で、明治新政府の欧米化政策を憂いて、一途な思いをもって反乱を起こし全滅した」ことくらいしか知らなかったが、資料館を訪問したことで、非常に生々しい事実を知ることができた。 新風連の志士の精神は、師・林櫻園(神仏儒、天文地理・蘭学に通じた神道家・国学者)の薫陶を受けた集団170名余が、1876年の廃刀令が出たのを機に、10月24日、明治政府に対する反乱を起こし殆どが戦死・自刃して果てたとのこと。近代戦の常識である鉄砲も持たないまま、刀剣・武具のみで要人暗殺を試みたが1日で鎮圧された。 |
多くの志士が辞世の句を残しており、展示されていた。 国学者・林櫻園が、熊本の若者に与えた影響の大きさも実感した。吉田松陰、吉田松陰が師と慕っていた宮部鼎蔵、新風連の指導者・太田黒伴雄、佐々友房(濟々黌創設者)、横井小楠、大村益次郎(長州)などなど、門下生は1200名以上といわれている。 |
三島由紀夫のコーナーもあり、「行動」という書も展示されていた。 資料館の人に聞いたら、新風連の変が10月24日、三島由紀夫の割腹自殺が11月25日ということで、コロナ禍でも最近は、県外からの見学者が結構増えているとのこと。 桜山神社の正面には、新風連の変に倒れた「百二十三士の碑」と、その奥に明治維新に倒れた宮部鼎蔵ほか20余名の「誠忠の碑」があり、合わせて参拝してきた。 |
加えて、NHKスペシャルで「三島由紀夫 50年目の青年論」が、つい先日放映されたので録画して見たが、常人ではない生き方に圧倒させられた。 三島由紀夫の書籍が50年後の今、売れ始めているとのこと。(この5年間で「命売ります」の書籍だけで既に50万部売れている。) 彼の「天才的・変人的な側面」がある一方で、「純粋性や人間的弱さ(精神と肉体への強烈なコンプレックス、嫉妬心、苦悩)、性的な葛藤」と格闘しながら「自分なりの生き方を模索」して活動してきたことに、現代の若者の共感があるようである。(「自分に自信が持てない」「他人との違いが気になる」ことを真正面から受け止めて、真剣に多様な挑戦を行い、素晴らしい文体で表現している。) 不安、不満、不信が蔓延する今の世の中を如実に現わしているのかもしれない。 |