■分別智と無分別智
前回のコラムで、書籍「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(河出文庫:飲茶著)の中に、「ものごとを学び理解する方法は二つある。それは分別智(因果:原因・結果・縁)と無分別智(相対的関係性)である。」という言葉が書いてあり、思考の中のいろいろなイメージが繋がりを持つようになった気がする。
分別智と無分別智について、分かりやすく書いてあるブログ(真宗高田派 清水谷住職)を見つけたので、紹介したい。
https://blog.goo.ne.jp/oyama_seiganji/e/c215071049642fea782daf79ec5ec59a
基本、人は「考えれば分かる」と思っています。そうやって物事を理解するために考えること(知識・知恵)を、仏教では「分別知」と呼んでいます。「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知り…というように、それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。この知識・知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知識・知恵のことです。大辞林の「分別智」の解説には、「自他の区別を前提として行われる、煩悩をもつ人間の思考。」と記載されています。
しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく変化し続けています。その世界のあり方を「縁起(因縁生起)」といいます(諸行無常・諸法無我)。そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが「仏の智慧」であり、それを「無分別智」と呼びます。大辞林の「無分別智」の解説には、「対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智。世界の窮極の真理を把握する智慧。」と記載されています。
分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、ありのままの世界を見ることができないからです。「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、知っているつもりになっています。
「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で私たちにありのままの世界を知らしめます。私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます
だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、私にできるはずがなかったのでした。せめて私にできることは、問題意識を持ってもらうことくらいです。「考えたけど、分からなかった。いったい何なんだろう?」と。そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と分かってもらえることでしょう。
※ちなみに信仰とは、人間が神を信じることですから「二元論」です。だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。
「分別智」と「無分別知」からイメージできることを見返しができるように対比的に記載してみる。「普遍的原理追求の西洋哲学/心の内面追究の東洋哲学」「2元論(デジタル)/多元論(アナログ)」「自己中心思考(先ずは自分ありき)/全体の中の自分」「SECIモデルの形式知/暗黙知」「朱子学の先知後行/陽明学の知行合一」などが対応しているように感じている。
最近、新たに調べるたびに気付きを得ることが多く、自分の「無知」を強く実感するようになった。自己客観視が少し深まってきたのかもしれない?