●哲学を考える⑧ 東洋哲学と西洋哲学② 

哲学に関して、いろいろ調べているうちに面白い本に出会った。
飲茶という著者が書いた「史上最強の哲学入門」 「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(河出文庫)という本である。前者が西洋哲学で、後者が東洋哲学に関して書いたものである。今、最も興味を持っている東洋哲学に関して調べたいと思い、先ず「東洋の哲人たち」から読み始めたところである。
第1章「インド哲学 悟りの真理」を読み終えたところであるが、この著者は、私が学んできた哲学とは少し違った視点からの考え方を示しており、私に新たな刺激と気付きを与えてくれている。

前書きには、以下のようなことがかいてある。
哲学とは「世界に存在する価値観を新たに発見すること」と定義し、
*西洋哲学は「常識を疑い、議論を積み重ねて真理に辿り着こうとする」、即ち真理追及のための知識体系(言葉と論理で理解する)である。本質的に人間は無知であり、無知を自覚することで、真理到達への究明を志し、達成できなくてもその志を後世に託す。
*東洋哲学は「初めに真理ありき」であり、真理を発見する体験(=悟り)の手順書(体を通して体感する)とのこと。先人の東洋哲学を批判や否定をするのではなく、「自分たちの解釈の仕方が間違いだ」と考えて、「新しい解釈の仕方」をつくり出し、その解釈の体系を発展させていく。

第1章はインド哲学について記載されている。
東洋哲学の源流はインドから始まっており、聖典「ヴェーダ」(古代インドの神話)があり、アーリア人支配を強化するために「祭祀(バラモン)、王族、庶民、奴隷」という身分制度を設けた。更に「ウパニシャッド(奥義書)」というインド哲学の基礎になるものができていった。
それを確立したのがヤージュニャヴァルキアの「梵我一如の哲学」である。梵我一如とは、『「世界を成り立たせている原理(梵=ブラウマン)と、個人を成り立たせている原理(真我=アートマン)は同一のもの(一如)」であり、これが分かれば、全ての苦悩から解放され「究極の真理」に到達するという考え方である。
更にこの考えを一歩推し進めたのが釈迦である、釈迦は出家後に試行錯誤を繰り返しながら修行を継続し、「無我の哲学」をつくり上げた。無我とは、「私(真我=アートマン)は存在しない」という考え方で、梵我一如と異なる考え方である。このことから釈迦は、東洋思想の大きな転換点をつくった人(イノベーター)だといえる。この新しい考え方の基盤に「四諦」と「八正道」があるが、この詳細には触れないこととする。

東洋哲学では「体験を通して本当に分かった」ということと「知識として分かった」との違いを基本的に重視しており、中国儒教の「知行合一」思考に繋がっているように思う。
釈迦が亡くなり仏教が発展していく最中に、仏教の大分裂が起こり、保守的な小乗仏教(上座部:厳しい修行した者が仏になれる)と大乗仏教(大衆向け:誰でも仏になれる)とに分かれていった。そして小乗仏教は東南アジア方面に広がり、大乗仏教は中国や日本方面に広がって、大乗仏教が仏教の主流となった。
その大乗仏教の基礎をつくったのが龍樹(ナーガールジュナ)という人物で「空の哲学」をつくったと言われている。私は龍樹についてこの書籍で初めて知ることができたが、日本仏教にも多大な影響をもたらした人のようである。

   
私が興味を持ったキーワードは「縁起」についてである。
釈迦が悟った縁起とは、「あらゆるものは必ず何らかの縁によって起こって消滅しており、永遠不変のものとしては存在しない。=諸行無常・諸法無我)」という釈迦一流の洞察のことである。
一方で龍樹は、この縁起の「新たな解釈に基づき「空の哲学」をつくりだした。空の哲学とは、「あらゆる物事・現象は相互の関係性によってなりたっており、確固たる実体として、そこに存在しているわけではない」という捉え方である。
無自生の空(実体のない空=色即是空、空即是色)」とは、例えば自転車をハンドルやペタル、車輪などに分解してしまうと、自転車はなくなってしまう。言い換えると全部品間の関係性や周辺のご縁により自転車は成り立っている。
この後に書いてあった「ものごとを学び理解する方法は二つある。それは分別智(因果:原因・結果・縁)無分別智(相対的関係性)である。」ということについて、私はいろんな関係性の中で興味を持った次第である。
これについては次回に触れるようにする。