■哲学を考える⑦ 東洋哲学と西洋哲学 |
今回「哲学を考える」シリーズを重ねる中で、いろんな角度から哲学を調べてきた。「宗教―哲学―科学・芸術」「哲学の歴史(西洋・東洋)」「宗教の歴史(西洋・東洋)」「世界の歴史、日本の歴史(古事記を含む)」などなど、表面的・感覚的ではあるものの、新たな気付きをたくさん得ることができた。 今、強く感じていることが3つあるので紹介したい。 |
①今回、いろんな角度から調べてみて、西洋哲学と東洋哲学の基本的思考プロセスが全く異なっており、その延長線上に今の我々の「モノの考え方」ができあがっていることを実感した。先ず、西洋哲学には「自己中心視(自己・自我)」的発想が、東洋哲学には「自己客観視(無常・無我)」的発想が原点にあるように感じている。 西洋哲学では、デカルトの「我思う故に我あり」に象徴されるように、先ず自分の存在があり、その自分が主体的に疑問に感じることの真理探求をする、例えば「自然は人間が支配するもの(自己中心視)」という考え方である。 それに対して東洋哲学では、老子の「無為自然」に象徴されるように、宇宙の原理原則「道:TAO」に従った生き方をする、例えば「自然との共生(自己客観視=天地自然の中に人間が生かされている)」という考え方だと理解している。 私が多様な角度で学んで感じとってきたことを、誤解を恐れずに「私の独断と偏見」で下記のように纏めてみた。 |
②東洋哲学の中で、日本民族のアニミズム(自然崇拝)が神道へと発展して根付き、加えて中国から伝わってきた孔孟思想などをうまく融合(日本ナイズ)し、更に時代を経て仏教が伝来したあと政治的思惑により更に融合され、神仏習合の時代(8世紀~19世紀)が1100年間も続いたことで、「神仏儒の融合」という日本独特の価値観が形成されて現在に至る。日本は島国であるために内部抗争は多発していたものの、外敵の侵略を受ける機会が少なく、1500年(初代・神武天皇からだと2700年)にわたる天皇制(皇室・王室で同一の家系)が継続しているという世界でも稀有な国体を長期間維持している国家である。2番目に長い国は英国の300年であり、いかに日本の天皇制は世界的に群を抜いた存在であるか分かると思う。 古い歴史のある中国においては、多様な民族による支配・衰退を繰り返し、支配者が入れ替わるたびに、過去の文化遺産(秦の始皇帝による焚書坑儒、毛沢東による文化大革命など)も破壊されてしまいがちで、結果として歴史的に継続されてきているものは少ないといえる。 そのような経緯もあり、東洋哲学としての文化・遺産(古の智慧・思想)は、多くのものが日本中心に残っているように感じている。 |
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③ 「日本人はあまりしゃべらないし、何を考えているのか分からない。 変な時にニヤニヤと笑ったり、少し気持ち悪い。」というような話を、昔はよく耳にした。欧米人と日本人は、「基本的に異なる思考プロセスであるために相互理解が難しい」ことに改めて気づいた。一方でグローバル化した近年では、人的・文化的交流(アニメ・漫画、観光往来、海外での日本文化イベントなど)も増えて、世界と日本との相互理解が深まりつつあることを感じている。 明治維新後に日本は西洋文化・技術を取り入れて発展してきたが、時代が進むにつれて日本から逆輸出されるものも多く出てきている。例えば、トヨタのジャストインタイム(JIT)が欧米でリーン生産システムに、野中郁二郎氏のナレッジマネジメント「SECIモデル」が世界標準に、日本の座禅がマインドフルネスに、日本のアニメ・漫画文化の浸透(30年以上経つ)により世界中の子供たちが、日本人の精神性に共感できる若者が増えるなど、今では世界中の大人たちの間にも「東洋の神秘」が世界に共有されるようになってきている。 このような形で、世界中で西洋哲学と東洋哲学の融合が進んでおり、人類の英知の高まりに期待したいと感じている。 |