■渋江塾と菊池一族④

では河童伝説に関することを紹介したいと思う。
神奈川大学人間科学部の小馬徹教授は河童伝説について、長年、調査研究をしている方である。河童伝説は全国津々浦々に存在しており、全国の河童伝説を調べて、全国に328話あり、そのうちの91話が熊本に集中していることが分かった。
熊本に河童伝説の鍵があると、調べていく中で橘氏の末裔である渋江家「天地元水神社」のことを知り、「天地元水神社」第43代目宮司の渋江公昭氏を訪ねてきたことで、河童伝説の解明が一気に進んだそうである。
渋江家に伝わる古文書4000点を調べていくと、その中に多くの河童に関する資料があった。河童の文書記録は新しいもので断片的なものが多いが、渋江家には河童信仰がどうやって生まれ、どうやって広がっていったかが分かる貴重なものであることが分かった。


河童伝説の始まりは以下の通り。
奈良時代に藤原氏と権力争いをした橘氏直系の末裔が渋江家である。
橘家3代目の嶋田麿が、称徳天皇から奈良・春日神社を短期間で造営するように命ぜられた。短期間で完成させるには多くの人手がいるので、霊力を使って木の人形99体に魂を吹き込み、予定通り工事を完成させた。工事が終ってから大工が、その木の人形を供養もせずに川に捨ててしまった。恨んだ木の人形は化けて河童になったとの伝説で河童が誕生したようである。その河童は次々と悪さをするようになったために、嶋田麿は霊力を使って河童を鎮めた。
その功績で、橘家は天皇より「天地元水神」を家の守り神として名乗ることを許された。
九州・長島に赴任した橘家改め渋江家が、この話の伝説を作って、赴任先の住民を服従させるのに使ったように想像できる。
特に渋江家が肥後に移ってきた頃から、水神信仰と河童伝説が広がっていったようである。丁度、稲作が普及させる江戸時代には、灌漑土木が盛んになり、肥後でも加藤清正が率先して推進していった。田畑の用水路をつくる際には水神さんを祀ることが盛んになって、徐々に庶民にも慕われるようになっていった。
渋江家の御札が「橘朝臣 渋江公俊」の名で、牛馬の安全祈願、海や川での事故を防ぐお守りなど、河童を鎮めることのできる水神信仰は深く浸透していった。
江戸時代中期に渋江家の影響は広がっていって、九州を中心に河童伝説も人々に受け入れられていった。久留米・田主丸の水天宮(志床の川ん殿)では、土着の水神と河童が融合し、それが江戸で大流行した。江戸が発信源となり、江戸時代後期には渋江家の河童伝説は全国区に躍り出ていった。全国の河童の共通点は「体は緑色」「頭に皿がある」「キュウリが大好物」「子供と相撲を取りたがる」「いたずら好き」などがある。
小馬教授に「河童はいるのか?」と問うたところ「実際にいるかどうかは分からないが、日本人の心の中に長い間い続けているのは事実である。」とのこと。