■渋江塾と菊池一族①

このところ山鹿出身である私が、強くご縁を感じていることがある。
それは山鹿の隣に位置する文教の里・菊池に関することで、この地では非常に有名な「渋江塾」と「菊池一族」について、少し深掘りする機会を得ることになりそうである。加えて「渋江家」と「横山家」が繋がっていることにも、驚きとワクワク感を感じている。


●「渋江家」と「菊池一族」との繋がり
「渋江家」と「菊池一族」とは時代が異なれども、同じ菊池の地を活躍の場とした歴史上の人物群として繋がっている。
菊池文教の祖である渋江紫陽(公豊)が師事したのは、山鹿在住の加賀美鶴灘であり、「古学(儒学の一派)」と「菊池一族の顕彰」を2つ柱として山鹿まで足しげく通い学んだとのこと。渋江紫陽は菊池一族顕彰活動として、第15代菊池武光公の墓碑建設を正観寺に行ったりしている。また渋江晩香(公雄)は、菊池一族が祀られている菊池神社の神職を務めて、当社を別格官幣社の昇格活動に貢献したり、菊池家伝(寄合衆内談の事)を明治憲法に盛り込むキッカケを作ったりもした。(渋江家のルーツ橘家の氏神は「天地元水神」で渋江家代々が当神社の宮司でもある。)
「渋江塾」が、肥後藩の藩校・時習館ができる6年前に、国学を学ぶ塾を始めていることにも驚き、私自身も共感し興味を持っていた。その関係で、子供論語塾を開催している菊池教育会の木原会長(当時)を訪問し、いろいろ意見交換したこともあったが、その時に、「渋江塾で使っていた四書五経の資料を預かっている」と聞いたこともある。
これらに私が興味を持ったのは、ライフワークとして次世代経営人材育成「共育塾」を13年間やってきているからである。

●「横山家」と「渋江家」との繋がり
9年前に私が半年間入院する大病をしたあと、横山家のルーツを辿ってみたいと強く思ったことがあった。その時は、戸籍謄本を精査したり、親戚や檀家の和尚さんなどから話を聞いて、ある程度まで調べ上げ、不完全ながら横山家の家系図を作った。その時に、本家の横山新助(私の父の兄)の嫁が、菊池の渋江本家から嫁いできた話も知ったので、渋江本家の当主に接触すべく探してみたが、どこに住んでいるかも分からないまま、その先の調査は断念した経緯がある。
最近になって、改めて横山家ルーツの深掘りをしたいと考え始め、同年代の横山本家筋の親戚に電話を入れて話を聞いたり、以前作成した家系図も送ったりもした。
その親戚が言うには、「家系をここまで調べているのにはビックリした。渋江本家では別の角度から、横山家について知っている可能性がある。その本家の当主・渋江公昭(きみてる)氏と親しくしているので紹介したい。」と、すぐに電話で繋いでもらった。おかげで本家当主・渋江公昭氏と電話で話すことができ、お互いにぜひ会って話したいということになり、11月に会うようになった。また丁寧にもNHK放映の渋江家に関するDVDも送ってくれることになり、楽しみにしている。


これで横山家の新たな情報を知ることができることに加えて、気になっていた渋江7賢人の直系の方から渋江塾に関する話を聞けることになり、いまはどんな話を聞くことになるのか、ワクワクしているところである。

このように「渋江塾」と「菊池一族」は、時代を超えて深く繋がっており、加えて辿っていくと「横山家」と「渋江家」も本家同士で繋がっていることも分かり、私自身にとっても更に身近な話になってしまった。
「ご縁に感謝」である。