■いま思うこと② |
振り返ってみると、18歳の時に熊本から上京し大学に入学、そのまま東京で就職し開発設計を10年経験して、台湾子会社に出向し製造責任者を5年経験、そして37歳の時にUターンして熊本の地場企業に就職し13年勤務して、思うところがあり49歳11か月で脱サラを決断した。その後、半年間のリフレッシュ期間を経て新たな活動を開始。横山耕二業を始めるために中小企業診断士の資格を取り、オフィスチェイカスを設立し20年、今日に至っている。 その間には転職に関する2大決断「熊本にUターンするか」と「脱サラするか」があった。特に「熊本にUターンする」決断をした時は、丁度、会社から出向先の台湾子会社次期総経理(社長)になる話と、親からの強い帰郷要請とが重なった。順調なサラリーマン人生の中での「全く異なる2つの道」の選択だったこともあり、我が人生の中で最も悩み苦しんだ決断だったと思う。最終的に決断根拠にしたことは「次男ではあったが、小さい頃から潜在意識の中に、将来は親の面倒を見るという予感があったこと」「子供3人が日本精神をキチンと持って生きるには、小学生の段階から日本での教育を受けさせる必要がある」の2点だった。 もう一つの人生の転機「脱サラする」という決断の時は、「このまま定年を迎えると悔いが残る」という潜在的な意識が数年前からあったが、あるトリガが決定要因となり即決した。家内の「あなたが思うようにするのが、一番いいことだと思う」の言葉にも勇気づけられた。「熊本にUターンする」時の決断に比べると、人生の大きな決断の割には心のハードルは小さかったような気はする。 |
次に人生最大のターニングポイント(価値観見直し)について触れたい。 最初の会社では「自分が思った通り仕事をやっていく」ことが常に評価され順風満帆であった分、人生について考えることも、仕事上で悩むことも殆どなく、あとで思い返すと大した能力はないのに慢心していたように思う。思いやりに欠け、エリート意識も強く、べき論を貫いて生きてきたと言える。 「自分なりの生き方の苦悩」に直面したのは、熊本にUターンし平田耕也氏との出会いからである。この時期が私の人生最大のターニングポイントだったように思う。そして平田耕也氏から受けた薫陶が、自分の言動に大きく影響していることを自己客観視するようになったのは、脱サラして5年ほどたってからである。もし平田氏との出会いがなければ、全く異なる人生を歩んでいたと断言でき、私の脱サラ人生に大きく影響した平田氏との出会いには、今も心より感謝している。 振り返ってみると、 入社した当初は平田イズムを全く理解しないまま、前の会社で学んだ知識・経験を使って自分勝手な改善・変革を進めていたが、それはいつまでも許されるはずもなかった。暫くすると強い指示や指導などを受けるようになり、エリート意識で慢心していた私の鼻をへし折られ、いろいろな壁にもぶつかり、戸惑い、悩まされるようになっていった。そして、ようやくそれぞれの企業体質、企業文化があることが分かり、30代後半になって初めて「自分の思い通りに仕事ができるとは限らないのだ」ということを、いやというほど思い知らされた。役割も部下も増え続ける中で、泥臭い人間関係の難しさや多くのジレンマに振り回されて、完全に自信喪失したこともある。 自分の人生について、藁をもつかむ気持ちで真剣に考えて、目一杯の自己葛藤を経験した時期であった。 自信喪失時代も、「何とか苦境を脱したい!」「どうすれば解決できるか!」という「よくなりたい心(向上心)」だけは持ち続けた。それらの苦悩から脱すべく、種々の人生本や宗教本を読み漁り、結構長い期間を試行錯誤したことは、今の価値観を形づける基盤になっている。そして私にとって大きな影響を与えた書、「にんげんだもの」(相田みつを著)に出会ったことで、新たに価値観の再構築ができたことは、私の人生にとって貴重な出会いだったように思っている。「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」という言葉に大きな気付きがあり、一気に肩の力が抜け、心が救済されたことを憶えている。 今思うと、平田耕也氏との出会い、「にんげんだもの」との出会いが、父母の教えと合わさって、新たな価値観形成の基盤になっているように考えている。 |