■日本精神の考察⑦

 弥生時代(紀元前300年頃~250年頃)から古墳時代に入っていく。
私が学校で日本の歴史を学んだ頃は、古墳時代の4~6世紀頃を大和朝廷(大和王権:近畿地方?)とも称していた。この頃にあった統治制度が「氏姓制度」であり、天皇家の関係豪族(葛城氏、蘇我氏など)と、有力豪族(物部氏、大伴氏、中臣氏など)が支配していた。この頃にも高い技術や知識を持った渡来人を品部(韓鍛冶部、陶作部、玉造部など)として重宝しており、あとでは渡来人で豪族になるものもあったようである。思想的にはまだ整理されていなかったようで、自然崇拝のアニミズム思想のもとに統治がなされていたような感じを受けている。
飛鳥時代に入り、538年頃に仏教公伝がなされて、普及するに従い仏教を統治に組み込むことを考える豪族が出てきた。
 
 583年に仏教の礼拝を巡って、蘇我馬子物部守屋が対立し、物部守屋が反乱を起こしたが鎮圧され滅びてしまった。そして聖徳太子(厩戸皇子)が、推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階(脱家柄)や十七条憲法(604年)を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図ったほか、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。
十七条憲法は、憲法の名を冠してはいるが、政府と国民の関係を規律する近代憲法とは異なり、その内容は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法・行政組織法としての性格が強い。また、神道に儒教・仏教の思想が習合されており、法家・道教の影響も見られる。
 
 蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、中大兄皇子(天智天皇)と一緒になり政変を起こした。
皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変という。
 
翌年に大化の改新が行われ、「公地公民制(私有地没収)」「首都を定め国郡制(都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都)」「班田収授の法」「租庸調制(税制)」などなどが実施された。

 天智天皇崩御後(672年)に皇族間の争い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子(天武天皇)が勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、689年に律令法(飛鳥浄御原令)が発令され、より強力な中央集権体制を築くことになる。
さらに整備を進めて701年に文武天皇時代に「大宝律令」が発令された。
大宝律令は、土地制度(一律)、租税制度(個人)、軍事制度(兵役)、行政制度(戸籍)に関する法整備を行うことで官僚制度を確立した。

 
 奈良時代は、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間であるが、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。藤原鎌足(中臣鎌足)、その子藤原不比等など藤原氏が政権中枢にいた。
律令国家として戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。
遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入し、全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄え、国家による仏教政策(国家鎮護)が頂点に達した時代でもある。また『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した時期でもある。