■日本精神の考察④

 私は中国歴史に詳しくないため、このシリーズを書き始めて少しづつ理解し始めた知識で、いろいろと推察を含めて論じることをご容赦願いたい。その都度調べて新たな知識を得るたびに、分かることが次から次に出てくることに、大きな刺激と気付きを得ているところである。
現在の中国は一つの国と言いながら、実際は漢民族中心の多民族国家であり、非常に複雑な歴史的推移があり、その時代時代によって統治範囲も大きく変化して、群雄割拠の戦国社会が続いてきている。元時代には蒙古民族が広大な支配地域を有していた時を経て、漢民族が全体統合できたのは14世紀中期の明時代になってからである。一括りにして中国を語ることは難しく、メジャーな歴代王朝を時代の象徴として述べていく。
 中国社会では、インドから伝来した仏教(大乗仏教/密教)と漢民族の土着的・伝統的な宗教が発展したものとして「孟子を始祖とする道教」に加えて「孔子を始祖とする儒教」がある。それらが合わさって精神的土壌が育まれ、支配者も一般民衆も精神的支柱(心のよりどころ)を持って社会運営がなされていた。儒仏道は長い時代変遷の中で、独自の発展と同時に相互に影響を与えながら形作られていったようである。
当然のことながらその時代に必要とされるものは、安定社会と戦乱社会では入り変わりながら推移している。また日本でも同様であるが、部族間(国家間)の紛争・統合が繰り返される中で大国が出現し、宗教が国の統治に道具として利用されてきたといえる。
隋・唐の時代から、日本(飛鳥・奈良時代)に対しても公式な宗教伝来が始まっており、日本社会にも大きな影響を与え始めたことも追記しておく。
中国歴代王朝と儒仏道の関係性を以下のように整理してみた。
 
秦の始皇帝 と 六家
○春秋・戦国時代:(前770~前403~前221)
春秋戦国時代に諸子百家(多数の学派)が生まれ、多くが六家に集約されている。六家とは、陰陽家(陰陽思想)、儒家(儒家思想)、墨家(博愛主義)、法家(法治主義)、名家(論理学)、道家(無為自然)の6つに分けられる。
この頃は土俗的民俗信仰(道教の一部)が社会の根底にあり、儒教は未だ王朝からは評価されていない。
○秦時代(前221~202):
秦の始皇帝は法家(法治主義)を重視し、儒家(徳治主義)に対して弾圧をしていたようである。道教の一部をなす神仙思想なども盛んだったようである。
○前漢・後漢時代(前202~後8・・25~220):
武帝が儒学を政府公認の学問に決めて、中央集権体制を強化し、領土拡張を進めた。そして1世紀頃にインドから初めて仏教伝来した時期にあたる。
後漢時代には、政治の実権が国王から宦官の手に渡り、時を経る中で徐々に腐敗していった。その後、仏教が上流階級に伝播し、神仙思想や不老不死の思想に仏教の論理を取り入れ同化して、新たな「道教」を形成し始めた。

三 国 時 代
○三国時代(220~265):
儒教は衰えていく一方で仏教経典が伝来し始め、竺法護により「光讃般若経」などが初めて漢訳され、それらは古訳経典と称されている。

ここまでは儒学と原始道教の時代にあたり、丁度、仏教伝来が始まったところである。そして西晋・東晋・南北朝時代に移り、鳩摩羅什の法典漢訳などを通して、中国社会への仏教の影響が大きくなっていく。
次回は、儒仏道が相互影響をしながらの展開していくところを述べていきたいと考える。