■五家荘を訪ねて |
日帰りツアーで五家荘を生まれて初めて訪問したが、長時間、細い道路をクネクネと運転する必要があり、大型バスでは通行できないために、24人乗りの中型バスでの日帰り観光であった。 「城彩苑→せんだん轟の滝→山女魚荘(昼食)→樅木の吊り橋→平家の里→梅の木轟→二本杉→城彩苑」のルートで、せんだん轟の滝では滝壺に虹がかかっており、非常に綺麗な虹を見ることができたのはラッキーであった。また旅の最後の地、標高1100mにある二本杉からの景色は、ススキ野原の先に、まるで墨絵で描いたような山々の重なりが見え、このような絶景はあまり見たことがなかったので感動した。 |
せんだん轟の滝 |
梅の木滝 |
二本杉 |
バスの中で、五家荘の謂れや平家の様々な落人伝説、菅原道真の子孫の話など、新たな話をたくさん聞くことができ、五家荘に対しての好奇心が相当増した。 平家の落人とは、源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦で一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにおいて平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。また、その200年前に、藤原一族の陰謀によって、筑前太宰府に流された菅原道真の子孫が落人になったようである。理由は、道真の子供2兄弟が非常に優秀だったため、藤原一族が逆襲されるのを恐れて、殺すために追手を差し向け、やむを得ず追手を逃れて肥後の山奥に逃げ込んだとのこと。 五家荘とは、「久連子・椎原・葉木・仁田尾・樅木」の5つの集落を総称しており、平清経の曾孫たちが「緒方氏」を称して久連子・椎原・葉木を治め、菅原道真の子孫たちが「左座氏(ぞうざし)」を称して仁田尾・樅木を治めたと伝えられている。 |
平清盛 |
落人伝説 |
五家荘エリア |
もう一つ印象的な伝説として、鬼山御前の話がある。 鬼山御前は、屋島の戦いで源氏方の那須与一が射抜いた扇の的を持っていた女官・玉虫御前であると言われている。落人となった玉虫は、鬼山と名を変えて、弟の久茂と五家荘に通じる柿迫の岩奥というところに落ち延びた。鬼山御前は絶世の美女との誉れも高く、話を聞いた高名な画家が3枚描いた肖像画の1枚が現存している。 平家の追討を命じられた那須与一の嫡男・那須小太郎宗治が、五家荘に入ろうとした時に、「この先には人は住んでいません。しばらくここで疲れを癒やしませんか」と引きとめて暮らすうちに、小太郎が、美女で心根の優しい鬼山御前と恋に落ちて結ばれたとのこと。鬼山御前は、多くの子供を育て、『乳の神様』として、泉町の保口若宮神社に祀られているとのことである。 |
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山女魚荘昼食 山女魚養殖 |
今回の旅で最も印象深いのは、昼食で訪れた民宿・山女魚荘のことである。 そこで感動したことも二つあった。 先ず、料理そのものが美味しくて感動した。ヤマメの塩焼き、刺し身、甘露煮に加えて、希少品の岩茸の酢漬けを初めて食べたが、適量で、それぞれの素材を活かした薄味で作られていた。加えて我々が到着してから、温かい「ご飯」「ヤマメの塩焼き」「山菜の天婦羅」「蕎麦汁」を作って提供してくれたので、非常に美味しく食べることができた。 次に、帰り際に玄関入口の両サイドの棚の上に、旅館主の黒木さんが自分で仕留めた「イノシシの牙付き顎骨」と「鹿の角」がたくさん飾ってあり驚いた。毎年々々、イノシシも鹿もたくさん仕留めるので、小物は残しておくとキリがないので捨てて、大物だけを残すようにしているとのこと。興味深くいろいろと話を聞いていたら、「一つ好きなのを選んで、持っていっていいですよ」と黒木さんが言われ、飾ってある中で気に入った「鹿の角」を遠慮なくいただいた。 山女魚荘の出来事だけでも、素晴らしい日帰り旅行の思い出を作ることができ、黒木夫妻には心より感謝している。 |
実は民宿・山女魚荘については、以前、ある人から天孫降臨の地・国見岳の登山に利用する宿と聞いたことがあり、少なからずの縁を感じている。 五家荘に行った時は、山女魚荘で宿泊・食事をすることをお薦めしたい。 ★山女魚荘 → http://www.yamamesou.jp/ |