菊池一族と文教の郷・菊池@

 今年に入ってから菊池との縁ができたことで、菊池の歴史文化等を調べてみたが、この中から菊池一族のこと、文教の郷・菊池の存在、そしてそれらの繋がりを初めて知った。また地域の歴史文化を知ることによって、現在の地域との繋がりを実感することの面白さについても、少し分かったような気がしている。
先ず、菊池一族について触れてみる。
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1070年(延久2年)に大宰府の荘官として菊池に入った藤原則隆が菊池氏を名乗ったことから菊池一族が始まっている。平安時代の末期から鎌倉時代、南北朝・室町時代、そして戦国時代に入るまでの25代・450年もの長期にわたって権勢を誇ってきた。22代能運で菊池家正統は絶えて、その後阿蘇氏、詫摩氏、大友氏が菊池氏を名乗ったが、26代・義武(大友重治)で終わっている。その間、家督を奪い合いながらも朝家への忠誠を第一に、愚直なまでの忠誠を貫いた九州肥後の武家集団であった。

15代 菊池武光公騎馬像
 菊池一族で誇れるものに、「2度の元寇での活躍」「菊池千本槍」「菊池家憲(寄合衆内談の事)」などがある。
1335年に13代武重公は足利尊氏の大軍に対し、箱根で新田義貞とともに戦った時に、劣勢を補うべく竹の先に短刀を付けた槍を作らせて応戦した。それまで日本には槍というものはなく、画期的な武器として名を馳せたようである。武重は菊池に帰ると延寿という刀鍛冶に命じ千本の槍を作らせたが、これが世にいう「菊池千本槍」である。
「菊池家憲」とは武重公自筆の血判入りの起請文であり、合議で物事を決定するという先進的で画期的、民主的なものであった。不安定な時勢にあって武重公は寄合衆を定め、菊池家の精神と政道をあきらかにした。寄合衆とは内談衆ともいい、管領を議長とする合議制をつくる人々のことである。国務の政道は独裁でなく、官僚以下の内談衆の合議で物事を決定するということが明言されており、これは今日でいう議会制民主主義の精神でもある。明治維新の際の「五箇条のご誓文」や「明治憲法」を作成する際に参考にされたといわれている。
 菊池一族が誇れることとして、もう一つある。
それは文教の郷・菊池の基礎を築いたことである。
21代重朝公は儒教を広めた人物として知られている。応仁の乱の最中にあって1472年に孔子堂を建て、学校をつくり学問を講究した。周囲では夜になると論語を読む声が聞こえたという。幕末に熊本で私塾が一番多かった地が菊池であるが、「肥後の文教菊池にあり」とうたわれたように肥後の文化、学問の拠点としての礎は菊池氏によってつくられたといってもいい。
この流れの中で、1748年にできた私塾・集玄亭に始まり明治維新まで続いた渋江塾(渋江7賢人)や、1915年の菊池教育団設立、1992年の孔子廟の新設(泗水)などが繋がってきている。

孔子堂跡
 このような地域の歴史調査を行っていく中で、日本人の心の中に四書五経や論語の教えが、深く沁み込んでいることを改めて気づいた。
次回のコラムでは、このへんに焦点を当ててみたい。