■日本精神の深掘り③

神道は寛容で柔軟性の高い思想(宗教?)で、教祖や経典もなく外来の諸宗教(仏教、儒教、陰陽道、修験道など)の影響を受けながら時代を超えて生き残ってきた。神道として確立されるまで、諸豪族は祖先から引き継がれてきた神を信仰することで、なかなか全体統合ができないまま推移してきた。
そして律令神祀制度(701年の大宝律令:神社格付け?)が整備された際に、全てのモノに神様が宿る(八百万の神)との考えの中に包含させることで、神道の一元化に至ったようである。
一方で仏教に関しては、発祥の地・インドから中国そして朝鮮半島を経由して、日本に上陸した。朝鮮半島からの渡来人(帰化人)を通して渡ってきたが、歴史上では古事記に「552年(538年説もあり)に百済王から欽明天皇に仏像や経典が献上された」と記してある。因みに儒教は、神道と同じ多神教ということもあり、513年に百済から(仏教より早い段階で)伝来したようである。

そのような背景の下で、日本精神構造ができあがっていく中において、「神仏習合・神仏分離」と「朱子学・陽明学・寺小屋」が大きな骨格をつくっていったのではないかと私自身は思っている。

先ずは、「神仏習合」について話を進める。
飛鳥時代(596~694)のはじめ頃から、蘇我氏と物部氏という2つの豪族による政権主導(天皇の補佐役)をめぐる権力闘争があった。実はこの争いは「日本に仏教の布教を許すか、それとも許さないか」の戦いでもあった。
用明天皇が587年に崩御されたことを契機に、蘇我氏(仏教普及派)が物部氏(仏教排除派)を滅ぼして、用明天皇の子・聖徳太子(厩戸皇子)を中心に当時の皇族(推古天皇、蘇我馬子)たちが仏教を布教していくことになった。
その際に、古来から大衆にも根を張っていた神道派の人々が、外来の仏教を受け入れやすくするために、神仏習合(神仏混淆)を行うと同時に、日本仏教の中に神道の儀式や思想も取込んで急速に普及していった。(神道の中に仏教の儀式や思想も取り込んだ面もあり、まさに神仏混淆である。)


聖徳太子が亡くなってからは、曽我氏が政権を私物化するようになったため、645年に中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足が中心になってクーデターを起こし、蘇我入鹿を宮中で暗殺した。これが「大化の改新(乙巳の変)」である。翌日、曽我入鹿の父・蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。
この時に、それまでに蓄積されてきた神代文字で書かれた古文書・古史古伝資料などが殆ど燃えてしまったために、「古事記」「日本書紀」なども、その後に再編纂されたようである。船恵尺がこの内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅び去った。

そして平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都され、皇室は名目的権力者となり
下記の通り武家による政権に移行していった
*平安時代(794~1185)摂政政治:藤原氏→平氏
*鎌倉幕府(1192~1333)武家政権:源氏→北条氏
*室町幕府(1336~1467/1573)足利氏(織田信長による滅亡は1573)
*戦国時代(1467~1587)応仁の乱~織田信長~秀吉の天下統一
*江戸幕府(1603~1867)徳川家康~15代徳川慶喜
*明治政府(1868~1912)
神仏分離令1868
 
神仏習合は8世紀頃の「神身離脱説」から始まり、9世紀以降の「本地垂迹説」、14世紀以降の「神本仏迹説」など時代の変化(政権の意向)に対応して約1300年間推移してきており、神道も仏教も相互に大きく影響を与え・与えられてきた。
*「神身離脱説」 :日本の神も人間と同じように、輪廻の中で煩悩に苦しんでいる身であり、仏法に依って救済される。護法善神というものは、神身離脱の考えをさらに推し進め、日本の神々のうちいくらかは仏教に帰依し、日本の神々が、仏教及び寺院を守る神となった。
*「本地垂迹説」 :仏・菩薩は日本の神々の真の姿(本地)であり、八百万の神々は、仏・菩薩が衆生を助ける為に仮の姿(垂迹)となって、日本の地に現われたものである。
*「神本仏迹説」 :神道の神こそ、本来の姿(本地)で、仏は神の仮の姿(垂迹)であるとの考え方である。