教科書に載せたい烏山頭ダム
台湾の古都、台南市官田区に位置するダム。
本で、日本人の八田與一さんが10年の歳月をかけて完成させたダムだと知り、今回の旅のメインにしました。
昭和5年(1930年)に完成したダムの堰堤は長さ1273m、底部幅30m、頂部幅9m、高さ56m、水路は16,000km。水路の長さは日本最大の愛知用水路の13倍、万里の長城の6倍。一体どれほどのダムなのか見当もつきません。
最寄りの駅からタクシーに乗り2時間かけて、ダムを案内してもらいました。
八田與一さんは東京帝大工科大学土木課を卒業した後、台湾総督府内務局土木課に技手として配属され、28歳の時技師になりました。衛生設備の工事に専念する過程で、台南市の上下水道、桃園大圳の設計と監督を務めています。当時の上司から電力とダム建設の調査を命じられ提出したのが、嘉南平原灌漑計画でした。あまりに壮大であったため、上司も驚愕。彼が考案した工法はセミ・ハイドロリックフィル(半水成式工法)と呼ばれるもので、堰堤の中心部だけがセメント、その両側に粘土と石を固めるもの。これについても、東洋では前例のない破天荒な大工事、安全性についても疑問、アメリカから呼ばれた土木の権威からも、日本の今の技術では難しい、できるはずがないと言われたと本にありました。
しかし、工事関係の犠牲者を134人(うち日本人は41人)出しながらも、諦めずに10年の歳月をかけダムを完成させたのです。このダムの完成により二束三文の値打ちしかなかった嘉南平原は穀倉地帯へと大変貌を遂げました。完成したときには、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界をあっと言わせたのだとか。ダム工事をするにあたり、工事関係者の家族が利用する宿舎、学校、病院、プールにテニスコート、映画館やビリヤード場、クラブ等娯楽設備までつくられたそうです。また、運動会やダンス大会も開催され、気持ちよく働ける環境をつくろうと東奔西走されていた様子。ダム近くの道路には「八田路」と、名のついた道路がありました。
戦後、国民党が台湾に入ってくると日本人の墓跡や記念碑は壊されたり、セメントで塗りつぶされたりしたそうです、そんな中、再建された銅像の1つが八田與一さんのものです。
こんな素晴らしい方が教科書に載っていないなんて本当に残念です。本を読むまで全く知りませんでした。台湾の方々が親日である理由の1つと言っても過言ではないでしょう。
昭和17年5月、フィリピン視察へ向かった八田與一さんの乗る船が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、56歳で亡くなります。日本の敗戦が決まると奥さまの外代樹(とよき)さんは、夫を偲んで烏山頭ダムの放水口に身投げされました。
ダムを見下ろす高台にお二人が眠るお墓があり、家族で手を合わせてきました。
                        (台湾は日本人がつくった:徳間書店/黄文雄著より)

ダムを見下ろせる高台

二人のお墓

八田與一さんの住まい

八田與一記念公園

放 水 口