■日本講演新聞より②

前回から引き続き苫野一徳先生の哲学が読みとく「学校教育とは何か」を紹介いたします。

 「自由の相互承認」
 今回はまず、次のことを皆さんと共有したいとおもいます。「公教育(学校教育)は市民社会の最大の土台であり、人類数万年の歴史における革命的な発明である」と。
公教育によって、全ての子どもが「自由」に生きるための力を育みます。
それと同時に、全ての子どもが対等に「自由」な人間であるという感度(感受性)も育むーこれが公教育の本質です。
この公教育の本質は、人類の命の奪い合いの歴史を通して、哲学者たちによって見出されたものです。
 人類は定住、農耕、蓄財が始まった1万年ほど前から戦争を続けてきました。
そこで、哲学者たちは「どうすれば戦争をなくせるか」ということを考えて
きました。
これは哲学最大のテーマだったのです。
でも、全然答えがわからなかったんです。戦争が当たり前のようにそこかしこで起こるものですから、もう、自然の摂理のように思うしかなかったんです。「神のおぼしめしだ」とか「天災と一緒だ」と考えていたんですね。
ところが、約250年前にヨーロッパの哲学者たちが戦争をなくす方法を編み出します。その中で立役者となったのがヘーゲルでした。「『自由の相互承認』を原理(根本ルール)とした社会を築くこと。これ以外に人類が『自由』に生きる道はない」。これがヘーゲルの出した答えでした。






地球上の生き物の中で、なぜ人間だけが戦争をなくすことができないのか。それは人間だけが「自由への欲望」を持っているからです。「自由への欲望」というのは「生きたいように生きる欲望」のことです。「自由」というのは「生きたいように生きられている」ということだと考えてください。
動物はおそらく「自由への欲望」を持っていません。本能にしたがって生きていて、「もっと自由になりたいぞー」みたいなことは多分思ってないのです。だから、動物の場合、争いが起こったら群れのボスが来てそこで争いは終わります。

一方人間は「自由」を奪われることにたえられません。奴隷でありつづけるのてあれば、死んでもいいから「自由」のために戦う。これが、人類の繰り返してきたことでした。
そして、このために人類は戦争をなくすことができなかったとヘーゲルは気付きました。
どうすれば誰もが「自由」に平和に生きることができるだろうか。
それは「自由」をめぐる命の奪い合いではなく、お互いがお互いの「自由」を認め合う社会をつくる以外にない、ということです。
「自由の相互承認」とは、どんなうまれだろうが、どんな人種だろうが、どんな宗教だろうが、金持ちだろうが貧しかろうが、みんなが同じ「自由」な人間として認め合う。その上で、社会をつくっていくということなのです。

「三つの問い」
あらためて、公教育は何のためにあるのかというと、全ての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、全ての子どもが「自由に」生きられる力を育むためにあるのです。
このように、物事の本質が分かれば、ここから具体的なことを考えていくことができるようになります。
問いを三つ挙げます。
一つ目。現代において「自由」に生きるための力は、何か?
二つ目。それはどうすれば育めるのか?
三つ目。「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?
以上を念頭において、これからの学校をどのようにつくって行くかということを皆さんと考えたいと思います。

なかなかパッと浮かんで来ませんが考えてみたいと思います。