■人は無限の可能性を秘めているA

 
 では私の経験の中から、「人は無限の可能性を秘めている」を感じた事例を書かせていただく。
 先ず、高校時代にサッカー部に所属していたが、1回戦敗退の常連校であった。進学校ということもあり、3年生は春の大会から学業に専念する習慣で、特に春の大会では3年生がいないハンデも背負っていた。私が高校2年になったばかりの春の大会の時に、全国大会常連校と対戦することになり、大きな実力差は相互に分かっていたので、勝てる可能性はゼロと考えていた。ところが偶然にも私のアシストで先制点を取ることになり、我々はその後も無欲で一生懸命プレイを続け、マイペースで試合が進んでいくこととなった。残された時間が少なくなっていくに従い、相手校に戸惑いと焦りをうみ、結果として、誰も予想すらしてもいない無欲の勝利を挙げることとなった。相手校は屈辱的な敗戦に、しばらくの間、夜遅くまでの練習を課せられたようであった。
 優勝候補に勝った事実があり、2回戦は「もしかしたら」と色気を出したが、簡単に負けてしまった。無心の強さ、失うことのない者の強さを、改めて実感したことを憶えている。
 
 次に、我々の若い頃は、中山律子や須田佳代子など女子プロボーラーが全盛の時であったが、私も会社のボーリング部に所属し、全日本実業団ボーリング連盟に加盟していた。我々の会社は全国大会出場の常連で、ほぼ毎年、調布支部代表として出場していた。結婚した翌年の昭和48年5月に東日本選手権大会が北海道で開催されたが、チーム戦では敗退したものの、どういうわけか自分でも不思議なくらい冷静な試合運びができ、高得点をたたき出し、個人戦で2位(部創設以来の初入賞)になったことがある。東日本選手権ともなると、競合がひしめいており、我々が入賞することは考えられない状況であり、まぐれで無欲の勝利を挙げることができたと思っている。
 それまでの私のゲームアベレージが172くらいであったが、練習量や方法を変えたわけでもないのに、どういうわけか、これを境にしてゲームアベレージが192と20点ほど上がってしまい、自分でも不思議でしかたがなかった。それ以降は台湾に出向するまでの5年間は、ずっと会社のトップボーラーでいることとなった。これは表面的な技量ではない精神的な自信がなせる業であり、人間の可能性には驚くばかりである。
 
 それから、49歳11ヶ月の時に脱サラし、50歳になってから中小企業診断士の受験勉強を始め、1年目に1次試験、2年目に2次試験を合格し、3次実習を経て資格を取得した時のことである。
 学校を出て以来、机に座っての長時間の勉強はやったこともなく、また16年に及ぶ管理職の経験が、地道な積み重ねをすることが下手になっていることを、改めて思い知った。受験勉強を始めたのはいいものの、当初は30分も机に向かうと嫌になるほど、集中力の持続が難しい状況であったが、忍耐心を強く持ち継続努力を行っていく中で、月を追うごとに1時間、2時間、4時間と伸びていった。
 また2次試験では暗記力が求められる科目があり、200字論文と600字論文の暗記を始めたのはいいものの、最初の1週間は殆ど暗記などできず、その後もなかなか暗記力が高まらず苦しんだが、継続努力を行っていく中で、ドンドン暗記力が増し始めていくのを実感し、最終的には自分でも驚くほどの暗記力が増したことを憶えている。50歳でこれだけの能力開発ができることを改めて実感し、柔軟性のある若い頃であれば、相当な能力開発ができるであろうことを確信した。いくつになっても人は無限の可能性を秘めていることを、自ら証明できたと思っている。
 
 最後になるが,私が脱サラしてからの13年間は、おかげさまで非常に密度の濃い人生を過ごすことができている。「人は無限の可能性を秘めているので、自分も無限の可能性を秘めている」と考えて、いろんなことにチャレンジしてきたわけだが、考えてもいなかった多くの思ってもいなかった経験をすることができたので、その中のいくつかについて触れておく。

@平成15年3月に創業ベンチャー国民フォーラムから、起業支援家が全国で3名表彰されたが、私がその中の会長賞を受賞することができ、1500人の出席者の中で江崎玲於奈会長から直接表彰を受け、励ましの声もかけていただき、一生の記念となった。

A平成15年11月に国際ビジネスインキュベーションシンポジウムにパネラーとして出席したが、NBIAのダイナ・アドキンズ会長がコーディネータであり、パネラーも米国、韓国の人を交えた通訳付のパネルディスカッションに参加するというワクワクする経験となった。

B平成16年1月、RKK担当の九州共同番組「ムーブ2004」で、「チ・エ・イ・カ・ス〜中小企業脱・下請け最前線」という30分のドキュメンタリー番組を作成・放映していただいた。私のオフィスにカメラが入るところから始まり、2つの脱下請企業とその支援人材を紹介するストーリーである。オフィス名称をタイトルに使っていただいたことに対して、ディレクターの方に心より感謝している。
 
 中小企業支援業の活動を行う中で、自ら発信することで、思わぬ方々ともいろんな形でのネットワークが広がっていく。昔と異なり、熊本から発信して、全国的に活動することも可能であることを証明できたと考えている。