■日本精神の考察⑧

 前回で奈良時代まで進んできたが、今回は平安時代について述べていく。
794年に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年の長期にわたり、政治上ほぼ唯一の中心であった。平安時代は、「人別課税から土地課税へ」「天領から荘園へ(荘園公領制)」「税逃れの武士農民から武士の豪族化」など、日本の統治体制の大変革期となった。
奈良仏教が「国家鎮護」思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益ももたらした。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海は中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると固く信じた。



皇族内の争いや藤原氏の摂政関白政治、そして源平の争いなど「罪深い時代」である平安時代に現世を信じる可能性は否定され、死後に仏教の楽園に転生することを求めることが流行した。末法思想である「後世にこの世界で仏教が廃れる」という考えとともに、仏教の楽園へ連れて行ってもらうという「浄土」思想が広がった。空也が諸国行脚して阿弥陀如来への帰依を説いた。
 平安中期になると関東方面の治安の悪化に対して国司を送り込み、勲功者が武士の初期原型で、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成し荘園が次第に発達していった。こうした荘園開発により力をつけたのが、新田氏や足利氏といった、後に坂東武士ともよばれた豪族であり、この頃から武士の時代が動き始め、また現在の日本人の精神形成にも影響しているようである。
坂東武士の成り立ちは、平安時代の律令制度(土地と人民は支配者に服属する制度)を逃れるために、開拓農民となり自立していき、自分たちを守るために武装農民となっていった。ここでは土地の所有が認められ、それが拡大すると家臣と領民ができていったようである。
司馬遼太郎「この国のかたち」の中でも、『名こそ惜しけれ(名を汚す恥ずかしいことはしない)精神、すなわち「潔さ」「自己を律し、他を大切にする」「立つ鳥跡を濁さず」などの精神が現代にも生き続けている』と記載されている。



坂東武士(関東武士)
 12世紀の中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇していった。こうした中で最初の武家政権である平氏政権(京都六波羅)が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。
平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的に関東に本拠を置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した。この乱の過程で鎌倉幕府は朝廷から東国の支配権、軍事警察権を獲得し、朝廷から独立した地方政権へと成長していった。