■ライフワークへのプロセス@

 もうすぐ4月、
今年も4半期が終わり、学校も行政、多くの企業も新年度を迎えるタイミングとなった。私もいつの間にか古希を迎えたが、月日が経つのは、本当に早いものである。
振り返ってみれば、社会人となってから東京(開発設計)で10年、台湾(製造)で5年、そして熊本に帰ってきて33年経った。33年のうちに地元の生産設備メーカー勤務が13年あるので、脱サラし個人事業を始めて20年目になる。社会人としての人生を振り返ると、現段階で第5の転機まで迎えており、そのうちのUターン転職が第1の転機、そして脱サラが第2の転機があった。

 最初の会社(電子機器メーカー)でモノづくりの全断面(開発〜製造)を経験し、量産製品の切り口から「マネジメントの重要性(商品開発及びQCDや効率の追求)」を学んだ。 ⇒運よく、やりたいことがやらせてもらえる立場を得て結果も出したが、あとで振り返ればだいぶ慢心していた面があったことを反省することしきりである。
社会人として初めての大きな迷いと決断の末、熊本にUターンし、生産設備メーカーで生産設備(受注生産)の切り口から「変化への対応(戦略商品や標準化の重要性及び1品料理の総合効率追及方策)」を学んだ。 ⇒この第1の転職で感じたカルチャーギャップは戸惑うばかりのもので、何よりも当時の社長・平田耕也氏から受けた刺激は、私の価値観にまで影響したことを、10年ほど経ってから実感することとなった。
脱サラ3ヶ月間は、サラリーマン時代の垢落としリフレッシュ期間を経て、今からの人生をどのように生きていくかを考える期間を持った。その結果、今までの経験を活かすことができる中小企業診断士の資格(能力資格)取得を思い立った。そして中小企業診断士の資格を取得、オフィスチェイカスを設立し「自分業(横山耕二業)」をやってきたわけだが、時が経つに連れて徐々に自身のライフワークについて考えるようになっていった気がする。

 平成11年秋に中小企業指導法が中小企業支援法に切り替わり、熊本県中小企業支援センター(くまもとテクノ産業財団内)が発足、私がモデル事業から入り、平成12年度に初代プロジェクトマネージャー(PM)となったが、これが私の仕事人生の第3の転機(大転機)となった。
それまでは北九州市の山本博一先生に師事して、九州を舞台にした製造業の経営コンサルタントを目指していたが、様々なご縁で熊本県中小企業支援センターの初代PM、その後にリージョンIM(インキュベーション・マネージャー)、そして中小企業基盤整備機構九州支部(福岡)の新連携PMなどに携わる中で、いつの間にか10年が経過し、地域中小企業や起業家支援の面白さを実感し、公的活動に力点を置くようになっていった。非常勤での活動ではあったが、縁があって中小企業庁とも繋がったこともあり、常に公的活動の視点でものごとを思考するようになった感じがする。

一時は毎月東京にも出張し、全国の都道府県支援センターPMと一緒になっての活動や、起業家支援IMの育成にも力点を置いた活動を心がけていた時期もあり、JANBO(現JBIA)のIM、そしてIMインストラクター、加えて九州のIM仲間の相互研鑽の場「九州BIP(ビジネス・インキュベーション・プラザ)」の立ち上げなども九州経済産業局と一緒に行った。九州BIPの立ち上げは、私にとって初めての相互研鑽の場づくり経験となった。
また県の方々と一緒に熊本初のインキュベータ「夢挑戦プラザ21」を立ち上げて、初代IMとして兼務活動したことが、何よりも印象深い出来事の一つとなった。敢えて言わせてもらえば、熊本の現存インキュベータの立上げには、私が何らかの形で立上げ支援に携わらせていただいたと自負している。






 丁度その頃、知人の企業内診断士から、「横山さんが何故、熊本にいて全国的に活動するようになったかを、知りたがっているメンバーがいるので教える場をつくってほしい」旨の話があり、企業内診断士(将来の独立診断士)を中心に「地域診断士研究会」という相互研鑽の場をつくり、いつの間にか11年目の活動に入っている。
その間に熊本初のビジネス支援図書館推進活動である「起業・経営相談会」を熊本県立図書館と一緒に始めたり、ベンチャーキッズスクールを企画したり、創業スクールを実施したりと、収益事業集団にはなっていないが、今でも相互研鑽の場として継続機能している。
その頃から創業支援をライフワークと考えるようになり、それらを纏め上げたものが「地域創業活性化のインフラ整備」のイメージ図である。

  そしてライフワークを強く意識しながら、それを更に変化(進化)させていったようで、第4の転機(還暦)、第5の転機(大病)を迎えて現在に至っている。
それについては次回に話を進めることとしたい。