■ 京都訪問A

   バスで次の目的地である金閣寺まで行ったが、いろんな角度からデジカメと
 携帯で金閣寺の写真を撮り、広い境内の散策を行った。その後、庭園を散策し
 途中にある茶屋でお茶を一服楽しんできた。やはり金閣寺は荘厳さや華やかさが
 あり、非常に趣を感じる場所で、気分的にも癒された感じがあった。
 金閣寺の正式名称は、鹿苑寺金閣と称し、足利義満が1394年(応永元年)に京都の
 北山に舎利殿(もともとは、お釈迦さんのお骨を祀る建物)として建設され、創建後、
 大修理が2回行われ、現在のものは昭和30年春に再建されたものである。
 次の龍安寺まで直通のバスがなく、徒歩で25分くらいと聞いたので、歩いて行ったが、思った
以上に距離があり、だいぶ疲れてしまった。この日の万歩計の表示は15540となっており、
月に数度しかない1万歩越えとなった。龍安寺の私にとっての目玉は、石庭と「我唯足るを知る」
のつくばいであり、大いに楽しんできた。10数年前に訪問した時に買った「我唯足るを知る」の
色紙は、事務所に飾っており、「我唯足るを知る」のキーホルダーは壊れてしまったが、今でも
キーホルダーの飾りとして使っている。
  先ずは石庭の前に解説を聞きながら長時間無言の中でただ眺めていたが、
 心の乱れがあるためか、前回ほどの感動を感じることができなかったのが
 残念であった。方丈庭園(史跡・特別名勝)−いわゆる「龍安寺の石庭」である。
 幅25メートル、奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、
 15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭である。近世の地誌類には
 室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに
 諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって
 作られたものとも伝えられる。 
 この庭には近世以来「虎の子渡しの庭」の別称がある。この庭を「虎の子渡し」という中国の説話と結び付
 けるのは伝承にすぎないが、参考までに説話の概略を以下に示す。虎は、3匹の子どもがいると、そのうち
 1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。
 そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう
 岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、
 どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。
 この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ
 渡る。つまり、3匹の子虎を渡すのに3往復半するわけである。龍安寺の石庭はこの様子を表わしたものだ
 というわけである。
 次に、茶室蔵六庵の露地にあるつくばいのところに行った。
つくばいは茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のこと。ここの
つくばいには「吾唯知足」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれている。水を溜めて
おくための中央の四角い穴が「吾唯知足」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」
として共有されている。徳川光圀の寄進と伝えられている。
釈迦の説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりと
いえども貧し」という「知足」の心を図案化した仏教の真髄であり、また、茶道の精神
にも通じる。 
   このつくばいのところで、しばらく眺めていることにした。
 「我唯足るを知る」は、私にとって非常に響く言葉であり、欲を感じるときには必ず頭に思い浮かぶ言葉に
 なっている。今回は廊下から下まで降りて、竹の柄杓で両手を清めた上で、デジカメと携帯で写真を取って
 きた。当日から私の携帯の待ち受け画面として、早速使っている。
 つくばいの近くにある日本最古の侘助椿をカメラに収めた後、「我唯足るを知る」に纏わるキーホルダーや
 色紙など、新たなみやげ物を購入して、龍安寺をあとにした。
   龍安寺から立命館大学まで歩き、浄土宗の総本山である知恩院に向かった。
 私は、父が亡くなったとき(平成4年)に浄土宗の門徒であることを認識し、
 たまたま父が亡くなった翌年も家族5人で京都を訪問して、菩提回向をお願い
 した。今回も昨年母がなくなり、そのとき以来の京都訪問となり、不思議な縁も
 感じている。
  知恩院の本堂では読経が行われている最中で、本堂内の社務所に母の菩提
 回向をお願いした。ありがたいことに重なっての申込みがなかったので、私一人
 が本堂内に座り、私の母のためだけの読経を行ってもらい、感動一杯であった。

  京都には、午前9時から午後3時までの滞在で、行きたかった4箇所を巡る
 ことができ、満足をして帰途についた。

知恩院入口↑と本堂↓