■ 京 都 訪 問 @

   2月24日(土)に大阪産業創造館にて、JANBO−IM認定審査会が行われたので、委員として出席し、
 翌日に京都まで足を伸ばした。今年に入って、仕事の疲れが溜まって体調が優れない状況が続いていた
 ので、気分転換の意味も含めて京都で過ごすこととした次第である。
十数年ぶりの京都訪問であり、気分転換だけでなく、意義のある訪問にしたいと考えて、「立ち
寄る場所を少なく、各箇所にはゆっくり滞在する」方向で事前に計画を行い、種々の検討を加えた
結果、「北野天満宮」「金閣寺」「龍安寺」「知恩院」の4箇所を訪問することにした。
 それぞれの訪問目的は、先ず北野天満宮は梅園見学、次に金閣寺は心の癒し、そして龍安寺は石庭と
 私の大好きな言葉「我唯足るを知る」のつくばいを目に焼き付けることとカメラに残すこと、それから
 知恩院は昨年亡くなった母の回向のためである。
  午前9時過ぎに京都駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅前のバスセンターに
 出向き、案内係の方にどのようなルートが望ましいかを相談した結果、バスの一日
 乗車券(500円)を購入して、京都駅→北野天満宮→金閣寺→龍安寺→知恩院
 →京都駅のルート設定を行った。
駅前のバスセンターでは、北野天満宮行きのバスは非常に混んで
いたが、ギュウギュウ詰めで何とか目的地に到着した。
バス同乗の地元の方から、「今日は梅見の季節だけでなく、梅花祭の
開催日でもある。
年に一度の舞妓さんによる野点があるから、是非見ていくといい。
あなたはこの日に京都に来たのは非常に運がいい。」と言われ、
混雑する理由がよく分かった。
←写真左:北野天満宮
 バスを降りて鳥居をくぐると、縁日の屋台が道路に面したところから
 境内まで続いており、ものすごい人波であった。屋台を過ぎて境内に
 入り、本殿の入口付近で茶会が行われていた。境内の梅も見頃となり
 馥郁たる雰囲気の中、多くの参拝観梅者で賑わっており、舞妓さんの
 艶やかさと、茶会参加希望の長蛇の列で、参列することは諦めて、
 周辺から梅園や舞妓さんの立ち振る舞いを楽しむことにした。
 
 天正15年(1587)豊臣秀吉公が当宮境内で北野大茶湯を催した故事に
 因んで上七軒総出(芸妓15名・女将15名)の奉仕により、御祭神
 菅原道真公1050年 大萬燈祭あたる昭和27年から毎年
 「梅花祭野点大茶湯」を開催しているそうである。
          写真右上:賑わう縁日の様子   同下:野点をする舞妓さんたち ⇒



↑多数ある臥牛の石像↓
当宮には臥牛の石像が多数見受けられ、多くの参拝客が牛のいたるところを
さすっていたので教えてもらったところ、「頭をなぜると頭がよくなる、腰をなぜると
腰痛がよくなる」ということらしく、私も縁起をかついで、頭と目と腰をさすって、自分の
目や腰などをその手で身体に当ててきた。
 
なぜ臥牛の石像が多くあるのかを調べてみた。
菅原道真公(天神様)は、「丑歳」生まれであり、且つ菅公の伝説には牛にまつわる
話が数多くあり、牛は天神様の神使(お使い)となっている。中でも延喜三年(903)
九州大宰府で御生涯を閉じられた菅公の御遺骸をお運びする途中、車を引く牛が
座り込んで動かなくなったため、近習達が已む無くその付近の寺院、安楽時に埋葬
したのだが、この故事により境内各所にある神牛の像は臥牛(横たわった牛)の姿と
なっているとのこと。
  
     
北野天満宮に関して、少し調べたことを書いておく。
 当宮は菅原道真公をお祀りした神社の宗祀であり、国を鎮め守る神として平安時代中期多治比文子らに
 よって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まりとされている。菅公は「和魂漢才」の
 精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍し、永延元年(987)
 一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得たとのこと。寛弘元年(1004)
 の一条天皇の行幸を初めてとし、代々皇室の御崇敬を受け、江戸時代には寺子屋の精神的中心として
 菅公の御分霊がお祀りされるなど、「天神様」として親しまれ、以来学問の神様としての信仰は現在に至る
 まで受け継がれている。
 北野天満宮では、太宰府天満宮と同様に合格祈願が有名のようで、
 絵馬に我が家の家内安全を祈願し、次の目的地に移動することにした。