■西洋哲学と東洋哲学の融合③  <日本哲学入門を読む>
そして今年の目標の一つである「西洋哲学と東洋哲学の融合」を深掘りするために、18日に初版発行され蔦屋3年坂店で買ったばかりの「日本哲学入門~日本の哲学者は何を考えてきたか」(藤田正勝/講談社現代新書)を早速読み始めました。
藤田京大名誉教授は、学生時代からドイツ留学を通して「ヘーゲルの初期思想」を研究しており、また日本に帰ってからは西田哲学を深く研究しているという「西洋哲学と東洋哲学」双方に深い知見を持った方です。

先ずこの本を読むことから、本丸である1回読了済みの「福岡伸一、西田哲学を読む」(福岡伸一・池田善昭共著/明石書店)の精読に移っていきたいと考えています。
「ヘーゲルの弁証法(正反合)」は、相反する(矛盾する)2つのいずれかをとるのではなく、第3の道を創り出す考え方であり、今はあらゆる分野でこの思考法が求められているように感じます。
何年がかりになるかわかりませんが、今の行き詰まった社会を乗り越えて、「西洋哲学と東洋哲学の融合」「デジタルとアナログの融合」による新たな智慧の創造に接してみたいと思っています。歳をとるほど知的好奇心は大切だと思っています。
日本の本格的な哲学史は、明治維新後に留学して西洋哲学を身につけた先人たち、東京大学にできた哲学科の西洋人講師から学んだものが始まりのようです。いずれも近代ドイツ哲学が中心になりました。
その中でも、京都学派の創始者である西田幾多郎の功績は、燦然と輝いており、西洋哲学界でも評価されているようです。
西田は高校時代からの大親友・鈴木大拙との縁で禅(臨済宗)に打ち込み、東大哲学科では西洋哲学を学んだことから、昔から東洋にある思想(孔孟思想や仏教思想)を西洋哲学的に表現することを目指したようです。西田は「善の研究」(純粋経験と実在)に始まり、後期には「場所の論理(絶対無の場)」「絶対矛盾的自己同一」を論理化しています。

この書籍から気付くことができた「西洋哲学」と「東洋哲学」の比較に関して得たものを纏めとして書いておきます。
学問成立の条件は、思い込みや偏った見方を排除し、物を物として見ることで、「主観と客観との分離」がその前提です。
しかし、そのように見る私と見られる対象を分離し、分離された対象を固定化し、分割することで、ものごとは本当に把握されるのでしょうか。
日本の哲学者の施策の根底にはそれがあるようです。なぜならものごとは動いてやまないもの、変化してやまないものだから。
「その変化するものを固定化し、分割することには意味があるが、しかしそのことによって私達はものごとを捉え損なっているのではないか。それを動性において捉えることが必要ではないか。」と考えており、私もこの意見に共感します。
最初は、見るものと見られるものの区別はなく、むしろ一体。(西田哲学の純粋経験)
事柄は単なる「もの」ではなく、むしろ「こと」として捉えることができると思います。
日本の哲学者の思索の中で、しばしば「知が行為」と、「理論が実践」と深く結びついてものとして意識されてきました。
東洋思想の特徴は、知が自己の身心全体による「体得」を通して把握されるものです。(従って修行も大切な行いです)
「哲学は論理の世界に閉じこもるのではなく、現実に関わり、その脈動に触れなければならない。知を単なる知としてではなく、常に実践を深く結びついてものをとして捉えるものの見方が必要である。」「もちろん西洋には西洋の文化と伝統があり、東洋には東洋の文化と伝統がある。そしてそれに基づいたそれぞれの自然理解、歴史理解、人間理解があることは当たり前で、そのような差異があるからこそ、逆に対話の意義もあることになる。」と筆者は述べています。

今までの西洋哲学と東洋哲学の捉え方に、新たな視点が加わったので、この書籍を買って読んだ価値がありました。