■西洋哲学と東洋哲学の融合②  <鈴木大拙と西田幾多郎>
私が浄国寺の坐禅会(曹洞宗)に参禅するようになった関係で、禅学研究の鈴木大拙を知ることになり、彼の親友で名前だけは知っていた哲学者・西田幾多郎に触れる機会が出てきました。
鈴木大拙と西田幾多郎は共に明治3年石川県に生まれ、生涯の親友としてお互いに支え合い、尊敬し合い、それぞれが禅学研究と日本哲学の立場で相互に教え合い学び合うことで成長していったようです。そして鈴木大拙は仏教をアメリカで広げようとし、西田幾多郎は西洋哲学を学んだ上で、熱心に坐禅の修行(臨済宗)に励み、その体験を通して「西田哲学」と呼ばれる独自の思想を形成し、日本哲学を世界に広げようと試みたようです。そういう意味からも、この二人は「西洋哲学と東洋哲学の融合」を図ろうとしたパイオニアではないかと思っています。
哲学の動機として、アリストテレスは「驚きから始まる」、デカルトは「懐疑から始まる」、そして西田幾多郎は「人生の悲哀から始まる」と言っています。「人生の悲哀」とは「自己矛盾」だそうです。
つまり、人間は生きているのに死ぬ、あるいは幸せに生きたいのに様々な苦難に出合う。そういう自己矛盾が「人生とは何か」「人間の生き死にとは何か」といった哲学の動機になっていくのだと言うのです。その結実したものが書籍「善の研究」とのこと。
西田哲学に触れるたびに、「純粋経験とは」「絶対矛盾的自己同一とは」を理解しようと試みましたが、その分かりにくさを実感することになります。そういう中で、ユーチューブに“【高校生のための倫理】西田幾多郎(日本思想)”を見て、イメージが少しできるようになりました。
そのイメージ図を見ながら、西田哲学の思想の一端に触れ整理してみました。
① 純粋経験論(前期思想)禅仏教の「無の境地」を哲学的に論理化する(主客は未分離:無分別知) 「無垢の赤ん坊、ゾーンに入る、三昧、集中没頭、一心不乱」などの状態
はじめに経験(純粋経験)ありき、そしてあと主観と客観に分かれる
②自覚論純粋経験を自覚することによって自己は発展していく(自己の確立)
善 ⇒主客合一の力を得て宇宙の統一力と一体となり、個々の人格を形成
主語を意識すると「自己+主観+主体」が生じることになる(分別知)
③場の理論自覚など意識の存在する場(絶対無から始まる)/西洋哲学は神から始まる
対立や矛盾を越えた一切のものを存在させる(有と無の対立を超える) 場は常に動いている(変化への対応が必要:有と無、個人と世界の関係性)
④絶対矛盾的自己同一論(後期思想)その場は宗教的、道徳的に統合される(即非の論理:鈴木大拙)
個人は世界に想定されることで自己になりえる(多即一)
世界は個人の様々な創造的行為によって形成される(一即多)