■台湾日本語世代からの遺言 番外編
   台湾で「神様」として祀られる日本人
日本統治時代(1895~1945年)の善行で、台湾人から尊敬された日本人がたくさんおり、その一部は神に祀られた方々もあるようです。
中華民国政府は政権批判を徹底的に排除する「白色テロ:政治犯収容に投獄・拷問したり処刑したりの恐怖政治」を38年の長期にわたり行ないましたが、初期段階で親日分子の徹底排除するために、日本時代の神社や尊敬碑などは徹底的に破壊されたようです。それに反して、住民が一時的に隠し保存されたものが残っているので、その一部を番外編として紹介します。
最も有名なのが、八田與一技師に纏わる話です。
李登輝元台湾総統が彼への感謝の言葉を残している。「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大圳(用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにしたひとです」 と述べています。
台南に東洋一とも言われる烏山頭ダムを建設したことで、感謝を込めて「八田與一記念公園」が作られ、その中に「記念館」や「八田與一、外代樹之墓」「銅像」なども設置されています。当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法をわが国で初めて採用したり、台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作ったりしました。
次に有名なのが「六士先生」。
「学務官僚遭難之碑」「芝山巌神社」:芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことです。日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったそうです。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺されました。
この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後は総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率を1943年(昭和18年)頃には70%にまでなったそうです。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となりました。6人の名は「楫取道明(39山口県)、関口長太郎(39愛知県)、中島長吉(37群馬県)、桂金太郎(37東京府)、井原順之助(24山口県)、平井数馬(18熊本県)」。熊本出身の平井数馬氏は、当時18歳、飛び級で済々黌を卒業した秀才だったようです。

それ以外の、ウェブで見つけた3人を紹介します。
*森川清治郎巡査 :嘉義の「富安宮」:自費で寺小屋をつくり地元民の教育、伝染病対策の衛生観念の啓発指導、農業技能の改善、役所に減税を要求し自ら命を絶った。
*小林三武郎巡査 :台湾宜蘭で土地の神様として祀られている。森林警官は農業や畜産の指導もしていた。家畜の種付けがうまくいかない時、本来禁止されている役所所有の家畜を内緒で農民に貸して種付けを試みて、一回で成功しなくても『もう一回! もう一回!』と繰り返し成功するまでこっそり家畜を貸し出した。いつの日か小林巡査は『もう一回さん』として地元農民に親しまれるようになった。
*杉浦茂峰海軍飛行兵曹長 :台南「鎮安堂・飛虎将軍廟」:20歳の時、台湾に来襲した米艦載機との空中戦で戦闘機が被弾したが、部落を戦火から救うために、自分の生命を犠牲にして集落を避けて墜落して戦死。多くの集落住民の夢枕に立ち祀ることに。
神様となった日本人のエピソードが、敬意を込めて台湾で語り継がれている。

日本の植民地政策は「現地資源や人民からの搾取」が目的の欧米とは異なり、「産業振興や教育に力点を置き、日本化する」やり方だったようです。
朝鮮や中国でも同様だったのではと思いますが、残念ながら、朝鮮や中国では、歴史改竄と過去の日本人善行の跡は破壊され尽くしています。個人の見解ですが、新政府が反日教育を強化してしまったように強く感じます。朝鮮でも親日色も強かったので、李承晩大統領が危機感を感じて、歴史改竄や徹底反日教育を行い、今の国家関係ができているように感じています。
今回の件を通しても、「統治者による意図的教育の怖さ」を強く感じる今日この頃です。