■台湾日本語世代からの遺言②
日本の中国大陸侵攻に対して抗日戦線を構築し、政治思想の異なる蒋介石・国民党と毛沢東・共産党が「国共合作」を行ったことが2回ありましたが、所詮「水と油」の関係であり、日本の敗戦が色濃くなる中で、両政権間の権力闘争が激化して、中国大陸では徐々に共産党が支配地域を広げていきました。
日本統治終了後(終戦後)に、国民党は中国大陸から台湾に逃げ込んで蒋介石が、台湾に臨時政府をつくり中華民国台湾省となりました。
あくまでも蒋介石は、将来的に中国大陸を中華民国が取り戻す計画でした。
台湾人からみると、50年にわたる日本統治のあとに、国民党独裁政権による台湾人(内省人)への圧政統治が始まった感覚だったようです。(当初、台湾解放の期待があったようですが・・・)
日本統治時代の当初は、日本の台湾総督府と台湾人間に様々な軋轢のあったようですが、日本の基本姿勢は「搾取のための統治」ではなく「台湾の日本化」にあり、台湾振興のためのインフラ整備や産業の振興、台湾人の日本人化教育など徐々に理解浸透させて、日本と台湾の一体連動する安心・安全社会を創っていきました。
ところが国民党占領軍による支配統治の際には、敗残兵感覚の強い占領軍の一部が、日本時代と真逆の「略奪、賄賂、窃盗、法の無視」などを繰り返したことで、必然的に“2.28事件”(現地人の暴動:私がいた頃はタブーな事実隠蔽中)が起きてしまいました。
国民党独裁政権は、戒厳令と懲治反乱条例を施行して、政権批判を徹底的に排除する「白色テロ:政治犯収容に投獄・拷問したり処刑したりの恐怖政治」を38年の長期にわたり行ないました。想像ですが、国民党政権側からすると、台湾人の反政権意識の芽を潰し(「台湾人の反政権活動」「共産党分子」「親日派分子」の徹底排除)、内省人を従順にさせるために、徹底的な恐怖政治をしたようです。
台湾人の意識の裏側には、台湾人の支配者が「日本政府から国民党政府に激変した社会」を実体験したことで、その何ともいえない現実に戸惑うとともに、強烈な両政府への比較意識が、心に深く刻み込まれていることもよくわかりました私が台湾出向していた期間(1978~1983)は、まだ戒厳令施行の時期(1949~1991)にあったことも帰国後暫くたってから知ったことです。(出向中は政治には全く興味なし)
私が出向して間もない頃、「日本時代はよかった」という台湾の人たちにもたくさん出会い、結婚式に出ると「久しぶりに日本語を話す」という近所のおばさんたちにもたくさん会って、親日感の強さを折に触れて肌で感じながら過ごしました。
私が在籍していた鳳山美之美有限公司にも「公安室(反政府分子の摘発:退役軍人/外省人の第2の就職先)」が設置されていて、公安が近寄ってくると、今まで北京語で話していたのを、台湾語に切り替えていた時代でした。というのは、退役軍人は台湾語が分からないので、わざと台湾語に切り替えて仲間に入れない姿勢を示していました。(民主化後に公安室は廃止されたようです。
李登輝が台湾人初の国民党総統に就任(1988)し、長年かけて民主化に尽力したおかげで、国民党一党独裁から民主主義国に変わっていきました。「静かな革命(1991年)/国民党軍を中華民国軍化し、総統の直接選挙制度化」に始まり、「新台湾人提唱(1998年)/内省人&外省人の融合化宣言」、そして「ひまわり学生運動(2014年)/真の民主化を実現」につながりました。李登輝は「台湾民主化の父」として尊敬されています。
彼はもちろん台湾日本語世代で、大の親日家でもあります。今の日本人以上に日本精神に誇りを持つ発言を繰り返しており、凄い人だと思うし、彼に尊敬の念を持っています。
今回、台湾日本語世代の書籍2冊を読んだことで、長期にわたる被占領民族の悲哀を切実に理解するともに、消え去っていく台湾日本語世代は我々世代とつながっていることを強く感じています。時間が過ぎるとともに自分の声として伝える人も殆どいなくなり、そのうちに歴史として記されるだけになるであろう「重み」を感じています。
今までと違った観点から、台湾の歴史を知ることの大切さを強く実感しているところです。
次回は、2005年段階での台湾日本語世代のアンケート結果(110名/平均年齢76歳)に触れて、私なりの考察をしたいと思います。