■還暦を迎えて@

  私の誕生日は昭和20年8月20日であり、終戦記念日が8月16日であるので、胸を張って「私は戦後
 っ子」と名乗ることができるわけである。
 私は終戦と歩調を合わせて年齢を重ねてきている。今年は終戦から60年、すなわち私も”還暦”を迎えた
 わけだが思い起こすと、この60年間はあっという間の出来事で、まさに「光陰矢のごとし」を実感している。
 ここで、人生の節目ごとに振り返ってみたい。

 高校までの18年間を熊本(山鹿市8年、熊本市10年)で過ごし、大学入学の年に上京した。
ちょうど高度成長の真っ只中にあり、就職列車に乗り込んだ中卒者が「金の卵」ともてはやされた
時代でもあった。舟木一夫の「高校3年生」が大ヒットした時に、私もちょうど高校3年生であった
が、地方の人たちの多くが、都会に憧れを抱いて、夢を持って上京していった時代であった。

  大学卒業後、東京でそのまま就職し、海外出向するまでの15年間を東京で過ごしたことに
 なる。ラジオ、テレビなどの電子機器の発展が進んだ時代だったが、電子機器開発のエンジ
 ニアとして、仕事一筋に商品開発に没頭していた。会社のボーリング部に所属し、北海道で
 開催された全日本実業団ボーリング連盟・東日本選手権大会の中の個人部門で、準優勝を
 したことも印象深い出来事であった。社会人となって4年目に結婚をして、子供も3人目が
 家内のお腹の中にいたときに海外出向の話が起こり、OKの即答をしたことを覚えている。
 私が単身で海外出向した月に、3人目の子供が誕生した。

 台湾の高雄にある関連子会社に出向したが、私にとっては全てのことが初体験の連続で、思いで深い5年間であった。到着当日に町中を案内いただいたが、私が小さい頃の田舎の雰囲気を身体全体で感じたことを、今でもはっきり憶えている。また毎日退職者(多い日には10人以上)がおり、1年間の退職者数と入職者数と従業員数が同じくらいであり、大いに戸惑ったこともあった。ちょうど企業の第2次海外進出のタイミングだったが、部下一人のエンジニアから部下450名のマネージャーに切り替わり、戸惑いながらも無我夢中で仕事に取り組んだ。その結果として「最低評価から最高評価の海外工場」に変身させることができ、多くの経験と自信を得ることができたこともあり、懐かしくもあり印象深い海外生活であった。私は勝手に台湾を第2の故郷と考えており、今でもそのときの仲間と交流を深めている。