■サル化する社会①
「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」
利己的で近視眼的なものの見方をする人々が増殖する社会を“サル化”と定義して、「サル化する社会」(内田樹著)という書籍が出ており、私は著者の意見に非常に共感しているので紹介したい。

【著者紹介】
1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『そのうちなんとかなるだろう』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。



1 サル化社会とは

“サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすること。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだ。
歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じである。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術(論理的思考)。でも、今の日本では、政治家も官僚もビジネスマンもメディアも、論理的にものを考える力そのものが急速に衰えた。広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣がなくなった。時間意識が縮減したが、それが「サル化した社会」である。

2.時間意識の変化

時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることである。時間意識は人それぞれで伸縮するものである。
終戦後75年の間に、農業社会の時は春夏秋冬の1年サイクルの時間が基軸に人間社会が動いていたが、工業化社会、情報化社会と変化していくうちに、「1年サイクルの時間意識」から、「月、日、時間、分、秒単位、そしてサブ秒単位」まで競い合うような時代になってしまった。デジタル社会を迎えて、株の取引などもサブμ秒で競い合うようになり、すでに多くの分野で人間が関知できる域を超えてしまっているような気がする。





3.子供の教育について

子供の教育についても、今は学期ごとに学習到達目標が数値的に示されて、そこで示された「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないとみんな思っている。まるで自動車やコンピュータを作るように精密な工程管理と製品の質保証がうるさく言われるようになった。教育について語る言葉遣いも工学的になってきた。「シラバス通りの授業をしろ」とか「学士号の質保証」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう、どれも工業の用語だ。
人間は長らく植物的な時間のなかで子どもを育ててきた。それで何千年かやってきて、うまくいってきた。技術革新が進み産業構造が変わったからと言って、教育まで支配的な産業構造に合わせて変える必要はなく、子どもは植物的時間の中で成長すればいい。人間は生身の生き物であって、缶詰や乾電池ではない。

次回に続く