■渋江塾と菊池一族⑤
 
渋江氏略系図を手掛かりにして、多種多様な文献(ウェブ&資料で調査)と渋江家43代当主の話を聞くことで、初代の橘嶋田麿からの直系ルート43代までをすべて調べ上げ、私なりに完成させた。
深掘りしていく中で、歴史上のできごとと繋がり、私も「歴史の中に生きている!」ことを強く感じるようになった。

①南北朝時代の九州においても、一族の栄枯盛衰や親族紛争、敵味方に分かれた生き残り作戦など、泥臭いサバイバルの歴史があったようで、「強いものが生き残るのではなく、変化に対応できたものが生き残る。」という言葉を実感させられたた。


② 敏達天皇→橘家(奈良→伊予→出羽)→肥前渋江家→肥後渋江家と繋がっている1400年の歴史の中で、第43代当主が今なお実在し、その当主からいろいろな話を聞くことができたことは有難いことだと思っている。橘家は名門4家である「源平藤橘(源氏、平氏、藤原氏、橘氏)」の一つであり、それぞれが天皇家との政略結婚を行い、勢力を競い合っていたことも分かった。

③敏達天皇は推古天皇(女性)と婚姻関係にあり、聖徳太子、蘇我一族などと同時代の人であり、その子孫である渋江家当主と話をしたことで、日本の歴史を非常に身近に感じるようになった。また、学業の際に学んだ歴史は、点数を取るために暗記するだけの学問だったが、歴史への見る目が大きく変わった。

④称徳天皇から奈良の春日神社造営の勅命を受けた橘嶋田麿が完成(768年)させ、その後の苦難を克服した話に河童伝説の原点がある。その功績により天皇から橘家(→渋江家)の氏神「天地元水神」を賜わり、それが今、菊池の地で「天地元水神社」として伝承されていることにも驚かされた。
⑤ 神奈川大学の小馬教授の調査により、河童伝説の発祥の地は、渋江家(橘家が)に由来する。河童伝説は、肥前渋江家(1237年公村が始祖)や肥後渋江家(1559年公成が始祖)から始まり、江戸時代になって九州→江戸→全国のルートで広がったことが分かった。奈良・春日神社造営の際に、橘嶋田麿が木の人形に魂を吹き込んだ「兵主部(ひょうすべ):水神・戦いの神」が河童伝説の起源ともいわれている。

いろんな家系図を組み合わせて調べてみると、抜け・漏れや名前の誤記(どれが正しいかは?)などが多々あることが分かった。いろんな物語も、意図的な創作もされているのかもしれない
渋江家当主に、直系図の完成資料を郵送したところ、「家系図が横の広がりも多く、先祖の関係を整理できずにいたが、直系図を作ってもらったことで、考えやすくなった。何かあれば、いつでも協力します。」と感謝の電話をいただいて嬉しかった。
また天地元水神社の修復が完了し、12月15日に神事が執り行われるが、竣工祭への案内をいただいた。寄贈された天井画を見ることができるのも非常に楽しみである。
ご縁に感謝!

次回からは、いよいよ菊池一族について纏めていきたい。