■世界遺産・崎津集落を訪ねて

昔から気になっていた「世界遺産・崎津集落」を肌で知るために、崎津集落まで足を伸ばした。行きつくまでに思ったよりも時間がかかったが、今までイメージしていたことよりも奥が深く、多くの感動があった。おすすめのコースは①崎津資料館「みなと屋」で崎津集落の全体像を把握し、②崎津教会を訪問、そして③崎津集落を散策してみて、キリシタンであることを隠すために設置された④禅寺「普応軒」(崎津集落ではない)や⑤崎津諏訪神社に参拝するといい。
日本のキリシタン歴史年表を紐解くと「布教(1549年フランシスコ・ザビエル来日)→弾圧(1614年江戸幕府による禁教令、1637年島原・天草一揆勃発)→潜伏(1654年キリシタン禁制の高札設置)→復活
(1873年キリシタン禁制の高札撤去)となっている。

昭和初期、崎津は海産物や隣町の木材・木炭などの交易で栄えた港町で、木賃宿や旅館が立ち並んでいたとのこと。崎津資料館「みなと屋」は昔旅館だったところを回収して資料館にしたとのことで、室内での撮影は禁止されている。説明員から一般解説に加えて、いろいろな質問にも丁寧に教えてもらった。2階建ての資料館内には3つ展示室があり、今回の世界遺産の全体像から崎津集落のことまで、非常に分かりやすくモノや資料が展示されていた。崎津集落は、崎津教会や崎津諏訪神社を含めた限定された狭い地域になっているが、これは世界遺産の条件を満たすためではないかと思った次第である。

1614年の禁教令(バテレン追放)から1873年のキリシタン禁制の高札撤去までの260年の間、宣教師のいない禁教の中で、信教を守り続けた人々がいた事実には、その間の苦難や何世代も繋いでいく覚悟などが想像され、いろいろ思いを馳せることがたくさんあった。
当然のことながら、日本では宣教師不在の260年の間は、正規キリスト教の習慣から逸脱した各集落独自の発達をしたこともあったようであり、解禁後に宣教師が説くキリスト教に違和感を感じる人もいたようである。

島原・天草の一揆以降はキリスト教弾圧が厳しさを増し、崎津においても庄屋宅の庭先で踏み絵を踏ませて、踏めなかった人は殉教したようである。旧崎津教会跡地から1934年に現崎津教会に移転されたが、今の祭壇の場所が踏み絵の置いてあった場所だとのこと。崎津教会は「海の天主堂」と呼ばれ、非常に珍しい畳敷きの和洋折衷の教会であり、撮影禁止となっている。

1805年のクリスマスに、祭壇に供え物をしたことがキッカケで、崎津諏訪神社で取り調べが行われ、自らの信心具を投げ捨てさせ、捨てたキリシタンは心得違いということで無罪放免されたことがあったようである。この時のことを、「天草崩れ」と呼び、4か村で5205人が摘発され、崎津においては住民の70%,1709人が摘発された。
今回の世界遺産登録に向けて、言葉の定義も見直しされた。禁教時代のキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼び、彼らは解禁したあとに「キリシタン」「隠れキリシタン」「他宗教改宗」に分かれて、隠れキリシタンのままで現在に至っている人たちもある程度残っており、テレビや新聞などで採り上げられている。徐々に人数が減り、活動ができなくなって生きている集落も出てきている。

帰りには近くにある大江教会にも寄ったが、日本式のお墓の上に十字架が付いている墓がたくさんあり、非常に驚いた。