■日本が世界平和に貢献するI 「独走する日本」日下公人著より
 ― 一神教と多神教、大陸と島国 ―

  さて、そういうのを読んでいると、逆に「あなたがたの国は日本と違うらしいね」と気がつく。つまり対比
 である。物事は何かと対比しなければわからない。対比論なしに日本だけというのは、「昔からこうだから」
 で終わりになってしまう。

  日本人も無理やりかどうか国際化されてきて、外国とつき合うようになって、対比論をよくするように
 なった。
 では、何と何を対比するかである。

  「一神教の国と多神教の国」というのはよく使われる。とてもわかりやすいし、本質的
 である。あるいは「農業をする人と狩猟をする人」は根本が違うぞというのもある。狩猟
 民族は略奪を悪いと思っていない。攻撃することを悪いと思っていない。お互いに攻撃
 し合って、その上にバランスがあると考えている。だから相手が防御に回るなら、やっ
 つけてしまえばいい、勝てるものなら勝ってしまえばいいのであって、それのどこが悪い
 のか、と考えている。ところが農業の人は、辛抱強く待っていればそのうちいいことが
 あるさ、そのうちまたお天気の日があるさ、という生き方がもう自然と身についている。
  あるいは「大陸と島国」というのもある。大陸では人間が歩いてどこまでも行っ
 てしまう。悪い政治をすると、歩いて逃げてしまう。実際、中国人の歩く力はほんとうに
 すごい。長江という南京や上海のあたりで政治が悪いと、かつての満州まで歩いて
 逃げてしまう。あるいはロシア人はツァーに虐待されると、シベリアまで歩いてきた。カム
 チャッカ半島まで来てこのへんであきらめるかと思ったら、ベーリング海峡を渡ってアラ
 スカへ行って、まだそれからサンフランシスコまで歩いて行った。
 
  日本人もこの前の戦争のとき、一番たくさん歩いた部隊は北京のあたりにいたのが、
 突然南へ行けと言われ、どんどん歩いて香港のあたりまで来て、さらにベトナムまで
 行けと言われてそれを全部歩いた。その間、五〇〇〇キロか六〇〇〇キロ。

  人間の足はすごいものだ、と思わされる。どうしてこんな能力があるのか。きっと先祖が歩いたからで
 はないか。アフリカからスタートして全世界に広がった。歩けない人はそこで置いていかれた。自然淘汰の
 一番大きな理由は足だったかもしれない。だから人間は歩くのが好きで、マラソン大会をすると市民が
 自分から申し込んで熱心に走る。それはDNAがそうなっているからではないか。

  ……と思っていたら、養老孟司さんが面白いことを言っていた。「もっと前にすごい淘汰があった。それは
 言語による淘汰です。ネアンデルタール人はなぜ滅びたか。言葉を使わなかったからだ」。ほんとうかどう
 かは誰も見たことがないからわからないが、しかし言語による淘汰というのは、それはまあ、あっただろうな
 と思う。だから今でも口のうまい人が出世する。美人をキャッチする(笑)。これをまだやっているのが欧米。
 
  日本はそんなものは卒業した。口がうまい人が出世するのを見ると、その上役が愚かだと思われる。
 周りはみんな知っているぞ、という段階に達している。

  だから日本では「評判」が一番最高の自然淘汰である。評判で世の中が動いていく、というのが一番うまく
 いく方法だと日本は発見して、それをやってきた。ところがアメリカは寄せ集めだから、評判が立つ前に
 何とかうまいことを言って、先に出世したり、儲けたりしてしまったほうが勝ちである。


  そういう違いは、やはり「大陸と島国」の違いから来るのかもしれない。
 島国の中は同じ顔ぶれで、特に日本の場合は文字ができてから二千年、文字ができる
 前から言えば一万年、だいたい同じ顔ぶれが住んでいる。だから評判が大切であり、
 それでだいたいわかってしまう。同じ言葉を話しているというのが、日本の大きな特徴で
 あり、島国の特徴でもある。

  「日本は言霊(ことだま)の国だ」という認識は、中国から文書による文明、文化が入って
 きたとき、それとの対比で日本人が気がついた自己認識ではないかと思う。「我々はおしゃ
 べりと詩歌でコミュニケーションができるので便利だ」と自慢しているのである。