■大阪維新の会のこと
   大阪維新の会の代表である橋下市長は、今までの政治家に比べて、具体的に痛みも
 伴う改革を進めてきており、凄いと思っているが、個性が強い分だけ賛成派(橋下は改革
 者)と反対派(橋下は独裁者)に分かれやすい。
 情報革命の進展で、日本だけではなく世界的にも、従来の仕組みが機能不全に陥って
 おり、次の時代に向けての「仕組み替え(体制改革)」が必要になってきており、橋下氏は
 それを担える数少ない政治家ではないかと思っている。
 何よりも、どの政治家よりも真剣みがあり、当事者意識も高く、現に今まで誰も触れなかっ
 た社会の歪に手を突っ込み、政治家や公務員にも痛みが伴う賃金カットなども行い、福利
 厚生の行き過ぎた部分を是正しようとしている。
 市バス関係者や教育委員会の無責任体制、非常識体質が浮き彫りにされたが、各個人
 の問題というよりは、今までこの実態を放置してきた責任者や「仕組み」の問題と捉える
 必要があると思う。


   日本航空の会社再建策を行う際もそうであったが、民間企業が経営危機に陥った時のコストカット常套
 手段として、「経営トップの賃金カット→経営幹部の賃金カット→管理職の賃金カット→一般社員の賃金
 カット」は当たり前のことであり、国家に置き換えると、「内閣・国会議員の賃金カット→国家公務員の賃金
 カット→地方議員の賃金カット→地方公務員の賃金カット→その後に国民の賃金カット(増税・福祉カット
 等)」が筋であるが、今の議員や公務員には「自ら身を切る覚悟」がないように見えてしまう。
 仕組みを変えないで改革を目指すことの難しさは、今までの経過を見る限り並大抵のことではなく、やはり
 「仕組み替え(体制改革)」が必要なタイミングになっていると思われる。
 日経ビジネス2012.7.30号に、堺屋太一氏が寄稿した記事「体制改革こそ大阪維新の本質」が非常に
 わかりやすい記事だったので、記事の要約を掲載させていただく。
 政治には、「政局」「政策」「体制改革」の3段階がある。
政局」とは、何党が政権を取り、誰が首相になるかの争い。言わば「誰が果実を配る
か」の話だ。
政策」とは、どんな規制をし、どの事業を実施し、どこに予算をつけるかの話である。
いわば「どこにどれだけの果実を配るか」である。野田佳彦首相は消費税を引き上
げ、官僚により多くの果実を配ることにした。
これに対して「体制改革」とは、国の統治構造と国政の目指す倫理をどうするかの
問題である。いわば、果樹園の地形を変え、土壌を改良し、樹木を植え替えようというのである。
大阪維新の会が目指しているのはこの「体制改革」だ。この国の仕組みと目標を変えようという運動だ。まずこのことを、正確に見てほしい。
   今、日本は「第3の敗戦」と言うべき状況にある。
 第1の敗戦は幕末(1860年代)、第2の敗戦は太平洋戦争での敗北(1940年代)、そして今(2010年代)が
 第3の敗戦、戦後60年間続いてきた体制が総崩れとなっているのだ。
 「戦後体制」とは何か。それは(1)官僚主導(2)中央集権(3)供給者優先──である。この3つが相補い、
 相支えて、戦後復興と高度成長を実現する一方、地域社会を消滅させ、家庭の団欒を破壊し、個人の独創
 を抑圧してきた。
 だが、21世紀の今は違う。「物財の豊かさ」よりも「個人の満足」こそ重要な世の中に変わった。それに日本
 の体制は対応していない。ここ20年余の経済不振と社会の退廃、教育文化の混迷は、そこに起因して
 いる。
   大阪維新は、まず「体制改革」を目指す。「官僚主導を政治主導」に変え、「中央集権を地域分権」に
 改め、「供給者優先を消費者優先」に変える。これが維新(グレートリセット)の真の狙いである。
 「政治主導」とは、例えて言えば、タクシーのようなものだ。有権者に選ばれた政治家が行き先(方針)と
 道筋を示し、運転は技能と経験のある官僚がすればいい。
 「地域分権」とは、住民の意向を反映しやすい規模の自治体の発意を優先することだ。“大阪都法”では、
 その方向がかなりの程度認められた。
 「消費者優先」とは、官僚よりも居住者を、教師よりも生徒を、管理人よりも住民を大事に考えることで
 ある。
 今、大阪では、そんな方向で府市統合本部が動き出している。これを日本全体にも広げたい。第3の復興
 のために。
   いよいよ解散・総選挙に向けて、各党とも動き始めており、維新の会も5人以上の
 国会議員を擁して「政党化」を目論んでいるところである。
 「誰がやっても同じ」との言葉を繰り返し聞く機会が多いが、希望の持てる次世代を
 つくっていくには、「仕組み替え(体制改革)」は必要不可欠なことである。今度の総選挙
 には、次世代を担う若者の投票率が上がることで、夢や希望の持てる社会づくりの
 始まりであってほしいと念じている。