菊池一族と文教の郷・菊池A

 文教の郷・菊池という切り口で調べてみたが、他に例をみない地域歴史の奥深さを感じている。
その始まりは、やはり菊池一族の統治時代にさかのぼるが、二十代為邦公の時代(1400年代半ば)に貿易と文教に力を注いだとのことである。そして二十一代重朝公が「菊池文教の祖」といわれているようだが、1472年(文明4年)に隈府に孔子堂を建立し、武士を集めて儒学の勉強をしたりしたのが始まりのようで、1477年(文明9年)には桂庵玄樹(薩南学派)を招請し、「釈奠(せきてん)の礼」を執り行なった。釈奠の礼とは、孔子をはじめとする儒教の先哲を先聖・先師として祭る儀式のことである。その後、桂庵玄樹は島津氏の招きに応じて薩摩に入り、やがて桂庵玄樹の教えは薩南学派と称され、江戸時代の朱子学に大きな影響を与えた。
孔子堂の跡を記す碑は、現在、菊池市老人福祉センターの一角に建てられている。



      孔子堂跡
 その流れの中で300年近くの時を経ても、脈々と生き続けた文教重視の思いは渋江一族に引き継がれたようである。渋江家は天地元水神を祀る家であるが、渋江紫陽以来、数代にわたって私塾を開き、学問を教えて菊池文教を盛んにした学者の家として知られている。俗に渋江塾と呼ばれていた。渋江塾で使っていた「四書五経」の書籍が発見され、現在、菊池教育会で保管されている。
今回の調査をした時に道に迷ってしまい、付近にいたおばさんに、2箇所で「菊池市原の渋江さんのところに行きたいのですが、どちらのほうか分かりますか?」と聞いたところ、「本家の渋江さんね。水神さんは今でもあるが、渋江さんは熊本市に住んどんなはる。」と丁寧に教えてくれ、その知名度の高さにびっくりした次第である。今でも住民の尊敬の的のようである。
熊本で細川藩が1754年(宝暦4年)に開いた藩校「時習館」が全国的に有名であるが、その6年前(1748年)に、渋江紫陽が私塾・集玄亭を始めたことは、驚きである。
なお渋江七賢人は以下のとおり、それぞれが塾の名前を付けたりして、通称・渋江塾を江戸末期まで100年以上継続してきたようである。横井小楠も渋江塾でも学んだことがあるようである。
 ・渋江紫陽(公豊)(1719-1792) 集玄亭(1748年〜)
 ・渋江松右(公正)(1742-1814) 紫陽の養子、星集堂
 ・渋江龍淵(公隆)、松右の長子(1778-1852)、銀月亭
 ・渋江?(さんずいに君)灘(公豪)、松右の第三子(1788-) 梅花書屋
 ・渋江公穀、?(さんずいに君)灘の次子(1830-) 梅花書屋
 ・渋江晩香(公木)、公穀の弟、遜子堂
 ・渋江龍伏(公寧)、晩香の子(1858-)、遜子堂

菊池神社
 次に伝えておかねばならないこととして、菊池一族の思想の伝承がある。
幕藩体制のときにも、一貫して天皇家を支援してきたのが菊池一族である。長い歴史の中で、皇室からも菊池一族は一目置かれる存在であったようで、明治3年には菊池一族を祀る菊池神社が創設された。明治維新(1868年)のときに、明治政府の基本方針である「五箇条のご誓文」や「大日本帝国憲法」制定の際も、渋江塾の関係者が多数関与したといわれている。その際に、菊池家憲である「寄合衆内談の事」の思想が参考にされたといわれている。
私も、今回の調査で初めて知ったことであるが、凄いことだと改めて驚いた。
以下に、五箇条のご誓文の内容を記載しておくが、「寄合衆内談の事」の思想が盛り込まれているように感じた。
一.広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一.上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一.官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一.旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一.智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。

次回に、近代史の中での菊池・文教の郷について触れたい。