■「巌流島の決闘」の真実は?
 宮本武蔵に関する書籍を調べている中に、「巌流島の決闘」に関する残された文献がいろいろあることが分かった。
 私も初めて知って驚いたわけだが、週刊「日本の100人 宮本武蔵」(2006年 NO.033:デアゴスティーニ・ジャパン発行)の中に、まとめてあった内容をここに紹介する。
さまざまに伝わる武蔵最大の勝負 異聞「巌流島の決闘」
小次郎や映画の原点『二天記』
 武蔵の人生でハイライトとなるのが、佐々木小次郎と戦った巌流島での決闘だ。ところが、この決闘が本当はどのようなものだったかは、実は定かではないのである。小説や映画などでよく知られているのは、武蔵の死後100年以上経ってから書かれた武蔵の伝記『二天記』に基づいたものであるが、戦いの様子を伝える記録はこれ以外にも多く存在し、それぞれ記述が異なっているため、さまざまな可能性が考えられる。ここでは歴史の裏側に回ってしまったエピソードを幾つか紹介する。
比較@『小倉碑文』
 『小倉碑文』とは、武蔵の養子・伊織が、武蔵が死んだ9年後に建てた武蔵顕彰碑に刻まれている記録である。そのなかに「長門と豊前の海の間に舟島という島がある。両雄は同時に相会した」という記述がある。「舟島」とは巌流島のことで、後に小次郎の流派「巌流」にちなんで巌流島と呼ばれるようになった。『二天記』では、武蔵は遅参戦法をとって小次郎をじらせたことになっているが、ここでは同時に島に到着し、試合に臨んだと記されている。

比較A『沼田家記』
 小倉碑文に次いで古い記録となるのが、武蔵の没後30年たった頃に書かれたとされる『沼田家記』である。これによると、武蔵と小次郎に対決の原因は弟子同士の争いだったとされている。決闘に弟子をひとりも連れていかないことを約束していたが、武蔵側はこれを破ったという。そして小次郎が武蔵に打ち据えられると、潜んでいた弟子たちが出てきて、小次郎を打ち殺したと記されている。
比較B『本朝武芸小伝』
 舟島に武蔵の弟子たちが隠れていたという記述は、武蔵の没後、70年余りを経て書かれた『本朝武芸小伝』にも見られる。しかし、このなかでは弟子たちが決闘に関与したとは書かれていない。
比較C『丹治峯均筆記』
 二天一流の伝承者・丹治峯均が書いたとされるこの書は、『二天記』とほぼ同時代の成立といわれる。ここで目につくのは、まず小次郎の姓が「津田」となっている点である。また、決闘の発端は、小次郎が武蔵の父・無二に試合を望んだこととされている。しかし無二は、小次郎が持っている「仕込みの剣の木刀」を恐れ、勝負を辞退。それを受けて、武蔵が小次郎を対戦することになったとある。そして武蔵は遅参戦法をとらず、早めに島に渡って小次郎を待っていた。武蔵の剣もひと味違い、舟の櫂を4尺に切ったものを用い、刃の部分には2寸釘を隙間無く打っていたという。立ち合いについても、武蔵は無傷でなく、打たれた首からは血が流れ、衿でその傷を隠したことになっている。
こうしてみると、武蔵自身が著した『五輪書』には、巌流島の決闘についての記述が全くないにもかかわらず、武蔵の死後、時を経るにつれて描写がドラマチックになっていることがわかる。
             (日本の100人 NO33.宮本武蔵 異聞「巌流島の決闘」より)