■宮本武蔵
 4月22日〜26日のたった5日間の間に、熊本市、天草市、八代市と全く異なる場所、それも最初から計画的に訪問したのではなく、その場で決めて訪問した場所が、宮本武蔵に縁のある場所だったこととなり、偶然にしても非常に驚かされた。
福岡の仕事を辞めて、4月から新たな活動に入った時でもあり、宮本武蔵にまつわることが、今後の私の活動や生き方にも何らか関係してくるのではないかと感じたわけである。

3/12福岡ソラリアプラザ壁面に
巨大壁面広告が登場
先ずは22日に、
宮本武蔵を題材とした「バカボンド」などの漫画で有名な漫画家・井上雄彦氏による「最後のマンガ展」が熊本市現代美術館で開催(4月11日〜6月14日)されており、どんなものなのか興味を持って観に行った。

 「最後のマンガ展」は、昨年、東京・上野の森美術館で開催されたものを、宮本武蔵の終の棲家となった熊本の地を意識して、アレンジし直した創作物だそうである。展示内容については、「この時・この場限りの空間マンガ」で、140点におよぶ肉筆画で構成する「バカボンド」の延長線上にある1篇の物語との解説がされている。
 意図的につくられた順路に沿って、意図的に配置された展示物を見て感じながら歩いていくわけだが、ストーリー性の強い不思議なマンガ空間の中で、私は非常に印象深い何かを受け取ることができたと思っている。小さい頃から強くなりたい一心で修行に励み、最後に自分なりに悟りに至るわけであるが、武蔵が求めていたものとは何であるかは、観てのお楽しみである。
次に25日に、
東京の異業種交流プラザ21のメンバー5人と一緒に、上天草市・松島にある企業を訪問した際に、2時間ほど余裕時間ができた。「せっかく天草に来たので、時間の許す限り先まで行ってみたい。」とのことで、とりあえず松島からループ橋を越えて本渡まで行ってみることにした。本渡に入って標識に注意して探し始めたところ、天草切支丹館の標識が見えたので、そこに行くことに決めた。天草切支丹館は改築中で、現在は本渡歴史民族資料館内に移設されていたが、何とか見つけ出すことができた。
 ガイドの話を聞いている中で、1637年(寛永14年)、宮本武蔵が54歳の時に、天草・島原の乱で中津城主・小笠原長次公の本陣に配されて、息子の伊織と共に政府軍として参戦したが、一揆勢を攻めて石垣をよじ登っているときに、一揆勢の投石で武蔵は足を負傷したとのことである。このときの経験から、戦争のない平和な時代となり、若い藩士たちの実戦経験の乏しさと日頃の鍛錬の怠りを痛感したとみられ、自分の実戦経験から得たものを後世に残す必要性を感じ、肥後・熊本に招かれたあとで、「兵法三十五箇条」や「五輪の書」「独行道」などを残すことにも繋がっているようである。

天草市立本渡歴史民族資料館
さらに翌26日に
共育塾3期生の企業のある場所確認のために八代を訪問することにしたが、せっかく八代に行くのであれば、何処かに寄ってみようと観光案内で探った結果、肥後花菖蒲で有名な「松浜軒」を訪問することとした。
http://www.yado.co.jp/hana/kumamoto/syohinken/syohinken.htm
正式名称は「旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園」として、国の名勝に指定されているとのこと。ここの展示物に宮本武蔵の書いた掛軸の書「戦気」や、巌流島で使った木刀と同じ自ら削った木刀などが展示されており、八代と宮本武蔵が繋がっていたことにビックリさせられた。
 天草・島原の乱の3年後(寛永17年)57歳の時に、細川忠利の客分として、肥後・熊本に招かれたとのこと。八代城を預かった松井興長は、武蔵の父、新免無二斎の門人で、豊前細川藩時代には巌流島での武蔵と小次郎の決闘実現に関わり、後に肥後細川藩では武蔵を兵法指南役に招くために尽力したそうである。掛軸の書「戦気」は、武蔵の自筆からとった白楽天の言葉「戦気 寒流帯月澄如鏡」と記載されている。寒流を二天一流に例え、鏡のごとく澄んだ自分の戦気に周囲の動きを映しだせ、と説いたそうである。
 
 私が若い頃から、求道者としての武蔵に憧れを持っていたこともあり、ワクワク感を持って、久しぶりに武蔵について調べる機会を持つこととなった。
 宮本武蔵は晩年を迎えてから、長い間、仕官がかなわない状況を経て、最後に肥後細川藩の兵法指南役として格別の待遇で迎えられた。着任して間もなく細川忠利の命により「兵法三十五箇条」を、そして霊巌洞で自らの兵法の集大成「五輪書」を、千葉城の屋敷で「独行道」を残し、その生涯を閉じたようである。
57歳で肥後・熊本を終の棲家として心に決め、62歳に病に伏し、永眠するまでの5年間の宮本武蔵について、もう少し突っ込んで調べてみたいと思っている。