■ご縁を大切に C
 平成10年4月に晴れて診断士資格を取得し、自宅を事務所としてではあるが、オフィスチェイカスの名刺や看板も作り、本格的な脱サラ後の活動に入った。夢と希望に胸を膨らませて、新たな仕事活動に入っていったことを、今でも鮮明に憶えている。
診断士になる前からお世話になっていた山下支部長から、「熊本には製造現場が分かる診断士が不足しているので、あなたにはその方面で頑張ってほしい」とありがたい言葉もいただき、県の委託診断員、振興公社の下請中小企業アドバイザー、設備貸与診断員などの仕事を紹介いただき、スムーズな診断士活動を始めることができた。

 「地方の診断士は何でも屋として、話がきたら全面対応すべし。」との先輩方の話もあり、くる話には誠心誠意で全面対応を行っていた。「もう少し肩の力を抜いてやらないと体を壊すよ。」などのアドバイスを受けたりしたが、私がもともと不器用なこともあり、常に全力投球を心がけていった次第である。活動開始2年目に、運よく「市の中心街にも近く、窓からは熊本城や遊水公園が見え、国道3号線沿いで駐車場も広い」という理想的な事務所を見つけることができた。事務所を持つには少し早い気もしたが、平成11年12月に賃借契約をし、区切りよく翌年1月に新事務所を開設した。従って平成12年の仕事始めは、心新たに北九州の山本先生を目指し、熊本にはいない「製造業のコンサルタント」に向けて本格的な活動を開始した年である。
 平成12年2月に、熊本県商工観光労働部の福島経営指導室長(当時の組織)がオフィスに来られて、「次年度から中小企業支援センター事業が始まるが、あなたにプロジェクトマネージャー(以下PMと称す)になってほしい。」との話があり、ビックリと戸惑いを感じたことを憶えている。福嶋室長は、以前、中小企業振興公社の事務局長をされており、そこでの私の仕事への取組み姿勢を評価いただき、この話に繋がったようである。これも不思議な、ありがたい縁であり、私の脱サラ人生は、県支援センターPMになったことにより、運命的に変化・成長・発展したことになるが、このきっかけをつくっていただいた福嶋室長には心から感謝している。

 県支援センターPMとして、平成11年2月からのモデル事業から絡み、サブマネージャーの稼氏(元九州NEC)、山田氏(元住友物産)とともに、全くのゼロから立ち上げを行った。というのは、@くまもとテクノ産業財団は技術支援機関であり経営支援には興味がなかったこと、A当時の福島知事が急逝したため県も対応が遅れ気味となり、中小企業庁が作成した中小企業支援計画をベースに、我々民間人が主導して立ち上げることとなった。
新たな事業が始まると、必ず国のほうから状況確認にくるわけだが、当事業においても、福岡県とモデル県である佐賀県を訪問する予定となっていた。ところが、どういう理由なのかは分からないが、あとで熊本県も追加訪問するように変更があったようである。そのときの中小企業庁の訪問責任者が経営支援課の石井統括係長であり、何ともありがたい縁を得ることとなった。
 せっかく国の方と面談するのであれば有意義な会合にしたいと考えて、県支援センターのコンセプトから実施しようとしていること、それに質問事項を事前準備した。当初は財団幹部との面談30分に支援センターPMと面談30分の合計1時間の訪問予定であったが、私が準備していた内容が中企庁の意図した内容をよく理解した上で、仕組みづくりをしていることに驚かれたようで、会合は30分どころか1時間半にも及ぶこととなり、その後の予定も変更されたようである。この石井さんとの縁により、私が中央で開催される委員会などに参加することになり、私の運命を大きく変えた出会いに、今でも感謝している。石井さんからは、私のことを「支援センター・プロマネ3羽ガラスの一人」と評価していただいたことも嬉しいことであった。
 その後に、東京での委員会に結構な頻度で出張するようになったが、その際に石井さんの上司である大槻課長補佐を紹介された。この方のおかげもあり、平成15年3月には、創業ベンチャー国民フォーラムから起業支援家会長賞を受賞することに繋がった。その年には、起業家3人と起業支援家3人が表彰されたが、その中の一人に選んでいただいたわけである。有楽町にある東京国際フォーラムで「Japan Vebture Award 2002」が開催され、1500人の出席者の前で、ノーベル賞の江崎玲於奈会長から直接表彰を受け、言葉をいただいたことは、私の一生の記念となっている。
 県支援センターPMと同じくらい忘れてならないことに、JANBOのインキュベーションマネージャーとビジネス支援図書推進があるが、次回はこのことについて触れてみたい。