■手塚治虫の火の鳥B

 NHKアニメの火の鳥には、黎明編(3世紀頃の邪馬台国と熊襲の争いが舞台になっている物語)、復活編(25世紀の世界で「人間とロボットと命のあり方」の物語)、異形編(16世紀の日本の戦国時代を舞台に不思議な輪廻転生の物語)、太陽編(7世紀の飛鳥時代の神・仏に関わる朝廷闘争の物語)、未来編(35世紀以降の人類滅亡から人類再生までの物語)がある。時代を振り子のように動かしながら、一貫して描かれていることは、

生とは……?
死とは……?
そして命とは……?
人間とは? ということで

人間が存在する限りの永遠の宿命的問題を、時間・空間を越えて壮大なスケールで描いたオムニバスである。 

 この一連の物語を一気に見終えて、特に印象深く感じたことを、自分なりに整理しておきたい。なお一つ一つを突き詰めていくと、切りのないことでもあり、とりとめのない短文にとどめておく。


@輪廻転生:異形編は世にも不思議な輪廻転生の物語である。死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを指す言葉であるが、私としては「時空を超えての命の繋がり」という表現をしたい。時空を超え、人間界を超えての輪廻転生もあると思うが、私は「命のバトン」というか、子々孫々と受け継がれていく命の凄さ、素晴らしさを強く感銘を受けた。私が今生きているのは、私の両親、そのまた両親と、代々遡っていった先祖代々の存在のおかげであり、その縁があってこそ私の子、孫に引き継がれていく命であることに、あらためて気付かされた。

 別の言い方をすると、人間は生まれたら必ず死ぬ存在であるが、その存在は代々引き継がれていくものである。人間だけでなく、今存在するありとあらゆるものは諸行無常であるが、それがまた永遠に繋がっていることを感じる。世の中は変化するものであり、終わりは新たな始まりであることを再認識した次第である。

 

A無償の愛の尊さ:先日も秋葉原での無差別殺人事件が発生したが、今の世の中は自己中心志向が蔓延しており、自分さえよければ、あとは知ったことではないと考える人が増えたことに危機を感じている。人間は一人では生きていけない存在であることを知りつつも、「集団に属したい」「一人で好き勝手したい」と自己矛盾する考えを並存させて生きているわけである。自己中心主義が蔓延する一方で、多くの人が孤独や先行きの不安を感じており、結果として心を病む人が増えているという皮肉な状況になっているようである。

 物語の中で命を賭して何かを守る場面があるが、これが無償の愛だと思う。無償の愛とは絶対愛であり、見返りを求めない愛のことである。駅で線路に落ちた人を助けようとして命を落とした人や、洪水で流された人を助けようとして濁流に飛び込む人などの話もある。これを損得勘定で考える場合に、「馬鹿な行為」として捉えることになるかもしれないが、そのように考える人でも半面、心の底では「自分にはできないが素晴らしい行為」と考えるのではないかと思う。自分以上に大切なものに気付いたときに、「愛や使命感」が生じ、「無償の愛の尊さ」を実践できるのではないかと思う。

 

B人の愚かさや醜さ:どの時代においても争いごとが絶えないようである。太陽編の中で、「宗教が悪いのではなく、宗教を用いる人間が悪いのだ」と火の鳥は考えているという話が出てくる。地位・名誉・金を手に入れると、それを守る自己保身の気持ちが強くなり、争いの中に身を置き、世の習いである栄枯盛衰にさらされる。分かっていながら、その愚を繰り返すことになる。何故かというと、そのような歴史が繰り返されてきているが、自分はそれらとは違うと考えるのであろう。わかっちゃいるけど、やめられないのである。

 環境汚染の問題一つとっても、ここ数年の気象異状は地球環境汚染が原因であると大多数の人が思っている。しかし経済大国は、「自分たちの生活レベルを維持・向上させることが重要」と考え、発展途上国は「自分たちもようやく先進国波の生活レベルに近づいてきており、少なくとも経済大国並みになって当然」と考える。結果的には、地球環境汚染が人類滅亡に繋がることを分かっていながら、「生活レベルを落としてでも、子々孫々のために地球環境汚染を食い止めよう。」との発想には繋がらない。行き着くところまで行き着いて、ようやく危機意識が芽生えるのかもしれないが、それでは手遅れであることを多くの人が理解しているのに、止めることができないのである。